膵臓がんと診断された“ガチな理系”の大学教員が、標準的な化学療法ではなくあえて「治験」を選んだ理由
「困難から逃げない」
前回、闘病と治療をリアルに描いたテレビドラマ「Wit(ウィット)」を紹介した。この物語の主人公ヴィヴィアンは、なぜ強い副作用があるとわかっている実験的な治療を受けることにしたのか。
※以下、作品の内容に触れるためネタバレを含む。また、作品についての解釈は、あくまで私個人の見解であることをあらかじめお断りしておく。
ヴィヴィアンは学生時代から難解なテーマに背を向けず、困難に挑み続けてきた。英文学の教授となってからも自他共に認める厳格な先生である。「困難から逃げない」それがヴィヴィアンのアイデンティティーになっている。
物語は、そんなヴィヴィアンがステージ4の進行性卵巣がんであることを告知される場面から始まる。医師のケレキアン教授は、強力な効果が期待できる実験的な治療を「困難であるがやりがいがある」ものとしてヴィヴィアンに紹介する。
ヴィヴィアンは自らの信念と重なるものと受け止め、治療に同意する。強い副作用にもかかわらず、彼女は治療を続ける。そんな彼女を「困難に挑む」という信念が支えている。
やがてヴィヴィアンは医師たちが実験結果にしか興味がないことを知る。看護師スージーとの触れ合いを通して、人に甘えられるようになるものの、それでも治療は辞めない。最後まで全うしようとする。
「強く生きてきた人は死を前にして自分の弱さを受け入れられるのか」が「Wit(ウィット)」のテーマだ。
「まあ、いいんじゃない」
この作品から、がん当事者が考えるべきことは何か。私は「がんとの闘病にはなんらかの“芯”が必要だ」ということだと思う。
ヴィヴィアンのような強い信念は自分を追い込んでしまうこともあるが、自分自身のアイデンティティーと結びついた“芯”があれば意思決定の負荷が軽くなる。長くなる(かもしれない)闘病生活で思わぬことが起こったとき、何を優先するか決めておければ楽である。
私の場合、それは偶然舞い降りてきた。
予定通り、標準的な化学療法なのか、治験について相談するのか――。考え続けているうちに、とうとう最初の治療を受ける日の朝になった。
――あのさ、化学療法なんだけど、今日のところは治験の相談をしようかと思うんだ。
「あっ、そう」
まだ治験を受けると決めたわけではない。ただ自分の行動をシミュレーションのように言葉にしてみることで何かが見つかるのではないかと思っていた。私は妻に話し続けた。
――ひとつにはさ、どうなるかわからないっていうことに、この際、賭けてみたほうが、なんというか、自分らしいというか……どう思う?
「まあ、いいんじゃない」
――そこにひとつ、自分自身で選択した、ということが間に入ることが大事なような気がするんだ。
「そうかもね」
――それと、膵臓がんは遺伝的な要素もあるっていうから、自分の子どもが将来この病気にならないとも限らない。そのときに、治療法が少しでも増えていたら、そのほうがいいよね。
「そうだね」
――そのための研究に、自分の父親が関わっていたっていうのは、悪いことじゃないような気がするんだよね。
「まあ、確かにそうかもね」
そう考えると妙にすっきりした
あらかじめ深く考え詰めた結論ではない。ただ妻とこの話をして「これで良いのではないか」と思えた。どうせいつかなくなる命なら、未来に役立ててもらったほうがいいだろう。それが子どものためにもなる可能性があるのなら、ためらう必要は無いのではないか。そう考えると妙にすっきりした。
こうして私は、最初の化学療法を受けるはずだったその日に、主治医に「やはり治験を受けてみたい」と相談した。主治医は私の話を聞き、治験を行っている病院でセカンドオピニオンを受けるための紹介状を書いてくれることを快諾してくれた。
※記事中で引用・参照した文献・資料の出典は以下の通りです。
「Wit(ウィット)」(監督 マイク・ニコルズ/アメリカ/2001年)
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