「単行本化は待ってほしい。これから本当の下り坂が来ますから…」 オイルショックを予見した「堺屋太一さん」が連載小説の刊行に待ったをかけた深い理由

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ネットもケータイもファックスもない時代

「堺屋さんが経済企画庁長官に就任するのは、まだ先ですが、さすがに1970年の大阪万博を企画し、大成功させたひとだけあり、全国のイベントや講演に引っ張りだこで超多忙でした」

 原稿は、最初の数回こそ順調に入っていたが、すぐに遅れるようになった。

「挿絵は、大御所の村上豊画伯です。ところが、あまりに原稿が遅れるので、ちゃんと読んだうえで描いていただく時間がない。そこで次週のストーリーを早めに聞いて口頭で伝え、先に挿絵を描いていただく、“絵組み”という非常手段をつかうようになりました」

 ところが、あとから届いた原稿を読むと……

「小説が、絵の場面まで、進んでいないんですよ。それどころか、まったく別の話になっていることすら、ありました。仕方なくそのまま載せましたが……。そこである時期から、村上先生には失礼ながら、あまり具体的に描かず、どうとでも解釈できる、あいまいな絵にしてくださいとお願いするようになりました。村上先生は『あなたも、たいへんだねえ』と笑いながら、“どうとでも解釈できる”、しかし味のある挿絵を、毎週描いてくれました」

 その程度の騒ぎですんでいるうちはよかったが、やがて、校了日になっても原稿ができない、異常事態に見舞われることになった。

 週刊誌は、週に1回の発行なので、締め切り~校了も週に1回だと思われがちだが、そうではない。週刊誌は、16ページもしくは32ページをひとかたまりとする〈折〉(おり)の集まりでできている。その〈折〉ごとの校了が、毎日あるのだ。

 週刊新潮は、毎週木曜発売である。よって、前の週の金・土曜から、〈折〉の校了がはじまる。その後、日曜、月曜と、毎日ひと〈折〉ずつ校了となる。最後は、火曜夕方の〈折〉が校了となり、すべての〈折〉を合体させて1冊ができあがるのだ。

 小説やエッセイは、早めに原稿がもらえるから、土・日曜校了の〈折〉に入っていた。一方、ギリギリまで最新情報を追うニュース記事は、月・火曜校了の最後の〈折〉である。当然、堺屋さんの小説は、土曜校了の〈折〉だった。

「毎週、土曜朝に、新宿区四谷の堺屋さん宅で原稿をいただき、その足で会社へ行って入稿し、夜に校了する綱渡りでした。堺屋さんは、地元大阪にも仕事場がありましたが、連載中の金曜は、東京のご自宅で原稿を書いてくださっていました」

 ところが、あるとき大阪での所用が重なり、金曜に帰京できなくなった。秘書からは「今晩中に大阪で書きあげるといっています。明日土曜、午後1時ころ新大阪発の新幹線に乗りますから、午後4時半あたりから、東京駅着の新幹線ホーム、グリーン車の前で、待っていてください」との連絡があった。このころの新大阪~東京間は、ひかり号で3時間半だ。

 いうまでもないが、まだ当時は、パソコンやインターネットどころか、ケータイも、ワープロも、ファックスもない。とにかく現物の肉筆原稿を直接受け取らないことには、話にならない。電話も、いちいち公衆電話を探さなければならないような時代である。仕方なくA氏は、

「時刻表片手に、念のため、早めの午後4時前から、ホームに立ちました。ほぼ15分ごとに新幹線が着くたび、グリーン車をのぞき込み、乗降ドアの前で待ち構える……姿が見えない。次の列車だろうか……別のホームへ走って移動……列車到着、待ち構える……見えない……このあとの列車か……」

 A氏は、この調子で、午後6時ころまで東京駅の新幹線ホームを行ったり来たり、飛び回った。土曜なので堺屋事務所は休みだ。自宅へ電話をかけようとも思ったが、

「もし、見逃すとたいへんなので、ホームから離れて公衆電話に行くことは、怖くてできませんでした。それでもさすがに6時をすぎても会えないので、四谷のご自宅へ電話を入れてみました」

 すると平然と、堺屋さん本人が出た――「ああ、すんません。ずっと早い新幹線に乗れたので、4時前に、家に着いてたんですわ」。

 A氏は、怒りもどこへやら、あまりにわけがわからず、とにかく四谷へ飛んで行った。

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