「週刊誌」報道のスタイルを決定づけた「1958年の下田沖航空機事故」レポート たったひとつの“キャンセル席”を巡る人間ドラマはどのように描かれたのか

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引き継がれた“遺伝子”

 以後、週刊新潮は、事件や事故をストレートに描くのではなく、その裏で起きていたドラマや周辺の出来事を描くことで、全容を浮かび上がらせるスタイルを確立させていく。いまでは、どのメディアでも当たり前になった手法だが、まさに、週刊新潮の“発明”だったのである。先のOB氏が語る。

「後藤さんは、あの記事について、ジョン・ハーシーの『ヒロシマ』の手法だというようなことをいっていました。アメリカのジャーナリストが、原爆投下直後の広島で取材した名作ルポです。6人の日本人が、なぜあの地にいて、どうやって生き延びたのか、その後、どのような苦労を経たのかを描いていました。初出はアメリカの『ザ・ニューヨーカー』誌ですが、週刊新潮は、創刊前に同誌を取り寄せて研究していたそうです。たしか、記事をまとめたのは、ジャーナリストの草柳大蔵さん(1924~2002)だと聞いた記憶があります」

 その“遺伝子”は、以後も引き継がれ、2000年代以降でも、たとえば《「日航機」御巣鷹山墜落から30年! 「死神」から間一髪逃れた「キャンセル・リスト」の後半生》(西所正道・筆、2015年8月25日号別冊)といった記事で、同様のスタイルが貫かれている。

 ちなみに、その記事に登場するO氏(75歳/1985年の事故当時45歳)は、その日、予定より早く用件が終わったので、早めに大阪の自宅にもどりたかった。そこで、事故機となるJAL123便(18時発)のキャンセル待ちの列にならんでいた。だが、あと1人のところで満席になり、難を逃れたひとである。

 このO氏が、本来手にしていたチケットは――「1985年8月12日19時35分、羽田発伊丹行き」だった。1958年8月12日の全日空5045便と、まったくおなじ日、しかも、ほぼおなじ時間帯の便だったのである。

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部

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