「週刊誌」報道のスタイルを決定づけた「1958年の下田沖航空機事故」レポート たったひとつの“キャンセル席”を巡る人間ドラマはどのように描かれたのか
15分遅れていれば、乗らなかったのに…
名古屋の鉄工所のS社長(34歳。記事では実名、以下同様)は、従弟のH氏(28歳)、同業のY氏(47歳)とともに5日前に上京し、精力的に所用をこなしていた。そして8月12日19時53分羽田発の全日空5045便で名古屋へ帰る予定で、3枚の切符を申し込んでいた。
ところが、この日の夕方、H氏のみに東京での新たな用件が発生。とても19時53分には間に合わないだろうと、H氏は自分の分をキャンセルした。しかし、S社長は、
〈「その用件をなんとか早く済ませて、一緒に帰ろう、飛行機の切符はなんとかなる」といった。H氏が「いや自分は汽車で帰るから」といったが、なぜか、執ように「別々に帰るより……」と繰り返し主張した。〉
そこで、H氏は用件を早く切り上げ、3人でタクシーに乗り、羽田空港へ向かった。H氏の1席くらい、空港でなんとかなるだろうとの見込みだった。ところが、
〈三人を乗せた車がスピードを増し、京浜国道から羽田の方に折れる分岐点にさしかかった時、S社長が「あっ、しまった! 切符を忘れた!」と叫ぶ。S社長とY氏の分と二枚、事務所に置き忘れたのだ。車は急ターンしてふたたび大田区入新井町の事務所へ。羽田飛行場に着いたのは七時三十分すれすれであった。〉
このとき、タクシーが遅れれば、彼らは、5045便に乗ることはなかったのだが、ギリギリで間に合ってしまった。だが、やはり満席で、何度掛け合っても、H氏は乗れなかった。「私はもういいから、汽車で帰ります」というH氏だったが、
〈改札になる時、S社長はH氏に「会社の印鑑をお前持って帰ってくれ」と突然いいだして預けたが、考えてみるとH氏よりS社長の方が早く名古屋に着くのだし(それまで一度もこんなことはなかった)、また預かる理由もないので、H氏はそういってまた印鑑をS社長に返した。〉
かくして、S社長とY氏は機上のひととなり、H氏ひとり、東京駅へ向かったのだった。遭難したY氏の父親(74歳)は、週刊新潮の取材に「もし切符を忘れたことに、もう十五分あとで気がついていたら、あの飛行機には間に合わなかったのに……」と語っている。
また、空席がなかったために難を逃れたH氏は、こう語っている。
〈「飛行場でS社長はこうもいっていました。“お前一人汽車で帰さずに、オレも汽車で行くといいのだけど、もう大分留守にしていて心配だし、子どもの顔が見たいから悪いけど先に帰るよ”――ついぞ、そういうことを言い出したことがなかった人なので、ちょっとへんな気がしました」と、沈痛な表情で言葉を結んだ。〉
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