「週刊誌」報道のスタイルを決定づけた「1958年の下田沖航空機事故」レポート たったひとつの“キャンセル席”を巡る人間ドラマはどのように描かれたのか

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その日が「火曜日」だったので……

 乗客のなかで、ぎりぎりで空いたキャンセル席が手に入り、搭乗できたために遭難した人物を、週刊新潮は突きとめている。名古屋に本社をもつ外車輸入会社の、東京支社に勤務するF氏(29歳)である。13日に名古屋本社で会議が開催されるので、「特急に乗って、12日中には名古屋についているように」との指示を受けた。

 ところがこの時期はお盆の帰省客で列車は満席。しかたなく、12日夕方、全日空5045便を申し込む。だが、これも満席だった。しかし代理店が「直前にキャンセルが出ることもあるので、一応、空港でウェイティング(待機)されてみては」という。そこで、19時過ぎに羽田へ到着。すると、運よくキャンセルが1席出て、F氏は機上のひととなる……。おそらく、もう少し遅かったら、このキャンセル席は、前述の名古屋のH氏が買っていたことだろう。

 そのF氏が買ったキャンセル席に、本来、座るはずだったと思われる女性を、週刊新潮は探し出して話を聞いている。それこそ「死神から逃れた」女性だ。Rさん(24歳)で、夫は米軍横田基地に勤務するアメリカ人軍属である。

 その夫が、出張で、12日夕方に米軍の軍用機で、横田基地から小牧空港へ飛ぶことになった。そこで妻のRさんも名古屋で一緒に過ごそうと、ほぼ同時刻に米軍機と並行するようにして小牧へ飛ぶ全日空5045便を申し込んでいた。

 12日、世田谷に住むRさんは、午前中から美容院へ出かけた。だが、どこも定休日。12日は火曜日だったのだ。実は、記事では説明されていないが、戦前から戦後しばらくの間、日本には「休電日」があった。電力不足だったので、一定時間、停電になる措置だ。西日本では月曜日が、東日本では火曜日が「休電日」だった。よって、パーマで電気を多く使う美容院は、東日本では、以前から火曜日に休む店が多かった。このころ、すでに「休電日」はなかったが、多くの美容院は、そのまま火曜定休だったのである。Rさんは、

〈「なんとなくイヤーな気持ちになった」が、それでも彼女は新宿まで出かけ、Iデパートの美容室にいった。が、そこも満員でなかなか順番が回ってこない。「なんだか、きょうは旅行に出たくないなあ」とぼんやり考えながら、やっとセットを終えたのが三時半ごろ。〉

 ところが、小牧へ向かうはずの夫が家に帰ってきた。軍用機が満席で、どうしても乗れない。そこで、夫は、翌13日朝8時の全日空便を申し込んできたという。

〈Rさんの便は十二日の十九時五十三分。どちらかに合わせなければ一緒に行けない。たぶん十九時五十三分の便でも、座席は取れると思ったが、Rさんは朝からのセットがうまくいかなかったことなどを考えあわせて、その夜はついに旅立たないことに決めた。/十二日の午後五時ごろ、彼女は予約を取り消したが、果たしてその余った一つの座席を誰が占めたのか、むろん彼女は知らなかった。〉

 おそらくそのキャンセル席を買ったのが、前記のF氏だったと思われる。週刊新潮は、名古屋観光ホテルに宿泊中のRさんを追いかけ、話を聞いている。

〈「結局、夫が軍用機に乗れなかったことが幸いしたのですが、たしかにあの日、わたしは足どめされたような気がしました。美容院が休みでセットがうまくいかなかったこともありますが、大体わたしは昔から予感が当たるんです。」〉

 ホッとするRさんだったが、さすがに、帰りは飛行機に乗る気がせず、ふたたびキャンセルしたという。

 このように《特別レポート 私は死神から逃れた》は、たったひとつのキャンセル席をめぐって、わずかな判断や時間の差が運命を決めてしまう不可思議さと残酷さを、如実に描いていた。記事には、全部で7組の、遭難者たちと、「死神から逃れた」ひとたちが登場する。これこそが、当時のTVやラジオや新聞にはできない、週刊誌ならではの、新しい報道スタイルだったのだ。

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