「週刊誌」報道のスタイルを決定づけた「1958年の下田沖航空機事故」レポート たったひとつの“キャンセル席”を巡る人間ドラマはどのように描かれたのか
本年は、週刊新潮の創刊70周年にあたる。それまで総合週刊誌は、「週刊朝日」や「サンデー毎日」など、取材記者や販売網を有する新聞社でないと発行できないといわれてきた。だが新潮社はこれに挑戦し、1956(昭和31)年2月、「週刊新潮」を創刊。出版社でも総合週刊誌を出せることを証明した(経済専門週刊誌としては、1955年創刊の「週刊ダイヤモンド」が先行)。
創刊直後から大成功とはいかなかったようだが、次第に新聞とはちがった独自の記事が評価され、定着するようになる。すぐに他社も次々に追随。出版界に、“総合週刊誌ブーム”がやってくるのである。そのきっかけとなった記事が、「週刊新潮」創刊2年目の1958年9月1日号に、7ページにわたって掲載された、《特別レポート 私は死神から逃れた》だった。
【写真を見る】この記事が「週刊誌報道のスタイルを確立した」と言われた名レポートだった
生と死を一瞬で分けたものとは
この年の8月12日夜、羽田空港発、名古屋小牧空港に向かった全日空5045便(ダグラスDC3型機)が下田沖での連絡を最後に、消息を絶った。乗客30名、乗員3名のプロペラ機である。
翌日、大島沖で機体の一部や遺体を発見。33名中、18名の遺体を収容し、残り15名は絶望と判断された。通称「全日空下田沖墜落事故」と呼ばれる、全日空開業以来、初の人身事故であった。当時は、まだ航空機にフライト・レコーダーやボイス・レコーダーなどが搭載されていなかったせいもあり、正確な墜落原因は、いまだに不明である。
記事は、この事故にめぐり合わせたひとびとの生と死を分けたドキュメントなのだが、むかしから、こんなふうに伝えられてきた。
「事故の一報が入り、マスコミが一斉に全日空の営業所に押しかけた。だが週刊新潮の新人記者が到着したときには、すでに搭乗者名簿は新聞各社が持ちかえっており、余分は残っていなかった。しかたなく新人記者は、キャンセル客のリストをもらって帰った。そのリストをもとに、搭乗していたかもしれないひとたちに話を聞き、いかにして死神から逃れたかをレポートにまとめた。これが、週刊誌ならではの独特な視点の記事として、“伝説”となった……」
この“新人記者”が、この年の4月に入社したばかりの後藤章夫記者(1935~2000)だといわれている。のちに週刊新潮次長を経て、写真週刊誌「FOCUS」初代編集長に就任。前代未聞の「200万部」を突破、「フォーカスされる」(隠し撮りされる)なる流行語を生み、社会現象となる週刊誌をつくったひとである。
週刊新潮OBのAさん(現在60代後半)は、後年、新潮社常務となった後藤氏に、このときの思い出話を聞いたことがあるという。
「どうも伝わる話は、かなり大げさなようです。後藤さんは、こう言っていました――『搭乗者の名前は、すぐ新聞に、全員の住所と勤務先名が写真入りで出たんだから、わざわざ名簿なんかもらいに行かないよ。取材に行った営業所に、たまたまキャンセルしたひとの名前と連絡先が何人か残っていたので、それをメモして帰ってきただけだよ』と」
いまでは考えられないことだが、当時は、事件や事故が発生すると、被害者も加害者も、実名どころか、勤務先・部署・肩書き、さらに住所は細かい地番まで、すべてが顔写真付きで新聞に掲載されていた。よってたしかに搭乗者名簿など、もらいに行く必要はなかったのだ。
また、タイトルが《私は死神から逃れた》となっているせいか、キャンセルしたひとの話で記事全体ができているように思われがちだが、これも正確ではない。実際に読んでみると、搭乗して遭難したひとと、キャンセルして命拾いしたひとの、双方のエピソードが紹介されている。つまり、いったいなにが、生と死を分けたのかを描いているのだ。
当時、この記事は、驚きをもって読まれたという。というのも、このころは、まだTV普及率は20%前後(もちろんカラーではなく、白黒時代である)。国民が接するメディアといえば、ラジオと新聞がほとんどであった。しかし、新聞には、これほど詳しいドキュメントは載っていない。多くの読者は、週刊誌の記事とはどういうものかを、週刊新潮で知ったのである。
では、いったい、どんな記事なのだろうか。
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