コロナが浮き彫りにした、西洋と日本の「死生観」の違い 日本人に求められる「価値観」とは

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窮屈なまでの潔癖主義

 そもそも科学的根拠を絶対視する、すなわち合理的であることのみに価値を置く思想は、西洋的近代精神によって大きく開花した。極東に位置しているにもかかわらず、日本は戦後、この近代合理主義を妄信してきた。その結果、死という受け入れ難いものをうまい具合に抱え込むといった先人からの知恵が見えなくなってしまった。例えば、世界を超越した絶対神を信仰の基盤とするユダヤ・キリスト教と異なり、現世を「生々流転」「万物一体」といった世界とみるような価値観が日本にはある。

 こうして「借り物」として西洋の近代合理主義を受け入れた日本は、不必要に、そして過剰なほどにそれを奉り、今日、ある種の窮屈なまでの潔癖主義に陥っている。曖昧さをうまく残すことを許容できなくなってしまった。すべて性急に白か黒か断定しなければ気がすまなくなっている。

 これでは我々の精神の自由は失われる。合理的には処理できない曖昧さや不条理にも何らかの意味を見出し、うまく対処するという柔軟な態度こそが本来の意味での精神の自由であり、現下の潔癖主義はその逆ではなかろうか。

伝統的な自然観、死生観

 ウクライナの情勢を見てもそうだが、世界中で不確実性と不条理が顕在化している。限りなく自由や富を欲し、合理的科学や技術を推し進めれば、無限に進歩できるなどと信じられる時代は終わった。

 今日、求められるのは、自然を脅威とみなして管理しようとする西洋発の近代的価値観ではない。そうではなく、日本文化のなかで育まれてきた価値観、すなわち我々は常に不条理に囲まれた限定された存在であり、人間の理解を超えた領域があるという自然観や死生観ではなかろうか。

 元来、日本には身の程を知り、欲望を抑えるという考え方があった。それは、科学の進歩によって死の脅威を抑え込み、もっぱら生の快楽を追求する近代的な「生の無限欲望」とは対極のものであったはずだと私には思えるのである。

佐伯啓思(さえきけいし)
京都大学名誉教授。1949年生まれ。東京大学経済学部卒業。専門は社会経済学、社会思想史。サントリー学芸賞や読売論壇賞、正論大賞などの受賞歴がある。『近代の虚妄 現代文明論序説』(東洋経済新報社)、『死と生』(新潮新書)『死にかた論』(新潮選書)等、著書多数。

週刊新潮 2022年5月5・12日号掲載

特別読物「シリーズ『ポスト・コロナ』論 新型ウイルスが問うた日本人の『死生観』」より

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