コロナが浮き彫りにした、西洋と日本の「死生観」の違い 日本人に求められる「価値観」とは

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「個体の死」より「集団の生」が優先される西洋

 西洋のコロナ対応が成功したとは必ずしもいえないが、少なくとも「覚悟の仕方」が日本よりも激しいものだったとはいえよう。まず政府はロックダウンで全ての動きを止めてしまう。それを仕方のないこととして市民も受け入れる。一方で、ひとたび感染者が減少に向かうと、ロックダウンを解除し、あとは基本的に市民の自由に任せる。そこから先は自分で身を守るよう、市民の側に責任が委ねられたのである。あるところまでは政府が責任を持つが、それ以降は自己責任で動いてくれということだ。

 良い悪いの判断はおくにしても、少なくともこうした対応は方針としては分かりやすい。そこには多分に西洋の価値観が反映されていたといってよかろう。

 第一段階として、まず国家があり、政府は国民の安全保障への強い責任を負い、国民もそれに協力する。その前提のもとで市民社会の自由が確保される。

 つまり、市民の自由は無条件ではなく、社会の維持のためには個人の自由や経済活動が制限されることも、また個人の生命が犠牲になることもやむを得ないという考え方がまずある。これは「個体の死」よりも「集団の生」が優先されることがあり得るという西洋的な思想の表れであろう。

「コロナとの戦争」という捉え方

 この考えは、基本的に陸続きであり、戦争によって常に国の存立が脅かされてきた西洋で、歴史的に作られてきた政治思想に基づいたものといえよう。だから、今回の疫禍も「コロナとの戦争」なのであり、覚悟の仕方が違った。

 個人の自由よりも、社会が壊れるのを防ぐという強権的なロックダウンを市民に要求するのは、生存が脅かされる「戦争」の発想があるからだ。そうやって彼らは、個体の生存よりも種の生存、つまり現代では国という社会共同体の維持を優先した。

 それが一定の成果を上げると今度は一転して、自己責任で個体の生を個人の手に委ねたのである。繰り返すが、それが奏功したのかは分からない。ただ、そこに彼らの死生観が垣間見られたのである。

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