コロナが浮き彫りにした、西洋と日本の「死生観」の違い 日本人に求められる「価値観」とは

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

死を隠してきた近代文明

 近代文明は科学や技術を発展させてきたが、それは医学にしろ生命科学にしろ、「死の脅威」との戦いであった。そうやって、不条理な死を遠ざけようとしてきた。裏返せば、「生」を無限に欲望してきたということでもある。「生きること」「生の楽しみの享受」のみに価値を置き、死を社会の表層から隠そうとしてきた。

 しかし、人間とは死すべき存在であるという自明の理へと我々は戻された。我々の生が死に取り囲まれていることを改めて知らされたのである。なにしろ、人間が作り出した壮大な文明は、目に見えない微小なウイルスの前でほとんど力を持たなかったのだ。

 そして「死」が「生」の最終段階である以上、「生き方」は「死に方」と相関している。そうであるならば、死を前提とし、そこから逆算して各自が生き方を自問自答しなければなるまい。これが死生観が問われているというゆえんだ。

 思い返せば、一昨年、初めて緊急事態宣言が出された際、それでもパチンコ屋に群がる人たちが話題となった。ひたすらパチンコに興じて死んでいくのでいいのかどうか――。いずれにせよ、死の受け入れ方が各々に問われているのである。

なぜ墓参りという習慣がずっと続いているのか

 では死生観、すなわち死を受け入れる価値観をどうやって我が物とすることができるのか。ごく簡単に言えば、そこには霊性、広い意味での宗教観が求められるであろう。宗教とは、死に臨んでも安らげるように、死に向かう覚悟を与える「装置」である。永遠の魂を信じるのか、先祖を信仰するのか、死後はいっさい「無」だと割り切るのか、形はさまざまであろう。だがそれぞれが何らかの宗教観や霊性への意識を持たなければ、「死に方」すなわち真の「生き方」を見つめ直すことはできまい。

 霊性などというと、ややもするとオカルト的に受け取られがちである。しかし、例えばお盆を考えてみる。先人たちは、死者によって生者は見守られていると考えた。だから死者が戻ってくるための祭祀を行った。

 確かに祖霊などに何の科学的根拠もない。しかし、あえて、死者に見つめられているというストーリーを共有することで、生者の側にある程度の倫理観が保たれた。また生者の心に死を刻むことができた。

 なによりもそう考えることで、生を意味付けたり、楽にしたりすることができる。これは一例であるが、我々はなぜお墓参りをするのか、どうしてこうした習慣がずっと続いているのかを考えれば、今日でも我々は決して霊性を失ってしまったわけではない。

次ページ:窮屈なまでの潔癖主義

前へ 2 3 4 5 6 次へ

[5/6ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。