コロナが浮き彫りにした、西洋と日本の「死生観」の違い 日本人に求められる「価値観」とは

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

結論が出ぬまま2年超が経過

 第二に、1980年代以降のグローバル資本主義がある。あくなき成長、進歩、開発を強いる新自由主義的なグローバル競争により、誰もが疲弊した。ギリギリのところでの競争を余儀なくされ、今のポジションを失えば待っているのは転落だけだというような過酷な状況に追い込まれていった。端的に言えば他人のことなど考えている余裕はなくなってしまったのだ。そこに、得体の知れない新型コロナウイルスが襲来し、恐怖、不安に苛まれてますます余裕が失われた。

 コロナ禍を前にして、西洋型の国家観念や死生観に依拠するのか、あるいは中庸的で自動調整的な日本型を寛容さのもとで受け入れていくのか。結局、結論が出されることなく、2年超が経過した。そしてここにきて、重症化率が下がり、有り体に言えば「まあ、コロナにかかっても死にやしない」という状況に至って、何とかこのままやり過ごそうという雰囲気が生まれたのである。

不条理と向き合う覚悟が必要

 しかし、いずれ必ず新たな疫禍は襲ってくるし、巨大な自然災害も起きる。戦争の脅威も他人事ではない。我々がまた不条理に直面するのは確実だ。そうなった時に、どこまで政府が介入し、どこまで個人の自由に委ねるのか、また相互の信頼や寛容の気質をどのように醸成するのか。それを今から議論しておかなければ、「新・新型コロナウイルス」が現れた時に、日本社会は今回と同じ混乱を繰り返すに違いない。不条理とどう向き合うのかという覚悟のあり様が求められているのだ。

 では、覚悟とは何か。それは、突き詰めれば死生観にたどり着く。誰もが死にたくない。ましてや得体の知れないウイルスになど侵されて死にたくない。

 しかし、コロナ禍で我々は、否応なく生物体の「死」を再認識させられた。それは結局のところ、死に直面した際、それを受け入れる覚悟をどう持つのかという話になる。逆に言えば、今さらながら死生観をうんぬんしなければならないほどに、我々は「死」を遠ざけてきたといえよう。

次ページ:死を隠してきた近代文明

前へ 2 3 4 5 6 次へ

[4/6ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。