コロナが浮き彫りにした、西洋と日本の「死生観」の違い 日本人に求められる「価値観」とは

国内 社会

  • ブックマーク

Advertisement

どちらの派閥からも批判される政府

 翻(ひるがえ)って日本はどうだったか。コロナへの対処は極めて曖昧だった。「自粛」がその象徴である。ロックダウンで縛るのでもなく、かといって市民に完全なる自由を許すわけでもない。「生命尊重派」と「経済優先派」のはざまで、世論・メディアから突き上げられた政府はその都度調整を図り、結果、中庸的な対策をとる。そして、どちらからも批判される。

 これは、いかにも能率が悪いし、分かりにくい。少なくとも、集団が生き残るための戦いなのだという発想は日本には全くなかった。しかし、それが日本のやり方なのである。我々はそういう文化を育んできた。その限界の中で、日本政府はそれなりにやれることをやったというべきであろう。

日本のやり方は、社会に寛容さが求められる

 ただし、日本のやり方がうまくゆくには、社会に寛容さや成熟が求められる。経済的な補償に関して言えば、例えばひとりで居酒屋を経営していれば店を閉めて協力金をもらったほうが普段より潤うこともあり、どうしてもアンバランスが生じる。それを、致し方のないこととして許容する寛容さがなければ、日本の中庸的な対策は功を奏さない。

 現代の日本においてはその寛容さが失われてしまった。だから、政府は常にどちらからも批判され続けることになったのである。だがどうして寛容さが失われたのか。

 第一に、戦後民主主義なるものが過度なまでの形式的平等主義に陥り、結果として寛容さを認めなくなったからであろう。「中庸型」のやり方がうまくゆくには、権利や利益の主張よりも、相互の配慮や、自ら身を引くという自制が必要である。もともと日本にはこうした自動調整機能が存在した。しかし戦後、誰もが自分の権利を主張し、それを戦わせることこそが正義だとされ、自動調整機能が働かなくなってしまった。

次ページ:結論が出ぬまま2年超が経過

前へ 1 2 3 4 5 次へ

[3/6ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。