「死ぬ瞬間まで自分を成長させることはできる」 がん哲学外来の言葉

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 順天堂大学医学部教授の樋野興夫氏が創設した「がん哲学外来」。そこで行われるのは手術でも化学療法でもない。患者や家族との「対話」である。しかし、その行為によって多くの人の心が救われている。たとえ深刻な状況でも、考え方で人生は変わってくる。樋野氏の著書、『がん哲学外来へようこそ』からある日の対話を見てみよう(以下、同書より引用)。

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「死ぬという大事な仕事が残っている」

 がんに限らず、病気でどのような状態にあったとしても、「いまできることは何か」に目を向けることが、生きる基軸になるということを述べてきました。

 この章では、そうした役割意識を得た人たちの例をご紹介していきましょう。

 不思議なことに、これまで対話をしてきて、そうした可能性が全く見えない人はほとんどいません。

 まだ40歳にならない息子さんが末期の大腸がんになった父親の場合もそうでした。

「息子のがんは進行が早く、転移もあって手術はできませんでした。抗がん剤治療を受けましたが、あまりの苦痛に今は治療を止めてしまっています。十二指腸、腹膜等もやられているため、口から食事がまったくとれません。今は点滴で栄養を投与しています」

──先生とはしっかり話せていますか。

「ええ、先生は良くしてくれています。ターミナル(終末期)ケアも含む、今後の治療方針についてもきちんと話し合うことができています」

──いまは息子さんは病院ですか。

「いいえ、自宅にいて、私と妻とで看病しています。独身なんです。

 じつは60代になるまで夫婦ともがん検診を受けたことがなかったのですが、息子に教えられたと思って、先日がん検診を受けてきました。娘も一緒に、連れ立って行ったんです。

 ですがこの先、ベッドで死を待つだけの息子が不憫で……。私たち家族は、何をしたらいいのでしょうか」

 状況は深刻ながら、男性はとても冷静で、声もしっかりしていました。

 私はいったんお茶を飲んでじっくり考えたあと、このように切り出してみました。

「息子さんには、死ぬという大事な仕事が残っているんですよ」

 男性ははっとして、少しの間動きを止めました。そしてはっきり言いました。

「そう、大事な仕事なんですね。息子にもそう、伝えようと思います」

 ベッドに横たわっているほかない患者には、もう何もできないと、周囲も本人も思っているかもしれません。それは違います。

 近づきつつある死に向かって、「自分はどう生ききるか」という大仕事がまだ残されているのです。

 死ぬ瞬間まで、自分を成長させることはできるのです。

 自らの品性を、贈りものとして家族や周囲の人に残していく。腹を立てたり、いやな顔をしたりしていてはプレゼントはできません。苦しみから希望を見出し、道を歩もうとする生きざまを残す。そうしてそれを記憶する人の心に生きるのです。

「余命は知らせないでください」

 ある日の2人の相談者に、私がまったく同じ言葉を処方したということがありました。相談の内容は、驚くほど違うのにもかかわらず、です。

 ひとりはがんで父を亡くした男性、もうひとりはがん治療中の女性でした。おふたりの話を続けて紹介してみましょう。

 おふたりに伝えたことこそ、「がん哲学外来」の最も大切なメッセージなのです。

「去年、九州の田舎に住む父が食道がんで亡くなりました。74歳です。病気が分かったのは2年半前で、父と一緒にがんだと説明を受けました。ただその後に、長男の私だけ主治医に呼ばれたんです。

 じつはがんはステージ4であること、手術はできないこと、余命は2年ほどであることを知らされました。治療としては、光線療法と抗がん剤を試してみるくらいしかできないと。

 そして、『これらのことをお父さんには伝えますか』と聞かれたのです。私はとっさに『知らせないでください』と答えていました。すると主治医は『分かりました。私も医師ですが、余命をご本人にお知らせすることはとてもつらいものです』と言っていました。

 それから父は7~8回、入退院を繰り返しましたので、私はそのたび東京から田舎に帰り、付き添いやお見舞いをしたつもりです」

──お父さんはお一人でお住まいでしたか?

「母と住んでいました。でも昔から、いわゆる手に負えない父だったんです。アルコール依存症に、ドメスティックバイオレンスもあった。職業は飲食店の経営をしていましたが、やくざとけんかしたり、暴力団の親分から指名が掛かったりと、堅気とはいえない商売をしていましたね。私はそんな父親が嫌だったのと、持病の治療があって若い頃に上京しました。

 父は入院中にも母を殴っていたんです。利き手は副作用で動かなくなったから、反対の手にリモコンを握って。私はたまりかねて病室で父を怒鳴ったこともあります。大きな声でもう来ないよと言って、その日から4日間は行くのを止めました。

 父の容体はだんだん悪くなり、ついに『持ってあと2、3週間』と言われました。私は用事を片づけるためいちど東京に戻ったのですが、そこで父が急逝したんです。

 急いで実家に戻ると、父は棺桶の中に入っていました。それを見たときに、なぜ病気の父を怒鳴ったのかという思いが押し寄せてきました。余命も最後まで告げませんでしたから、光線治療に通う父が何気なく『この治療は2年くらいやらなくちゃいけないみたいだな』と言ったときにも、『うん、うん』と頷くしかなかった。『いや、生きられないんだ』とは言えなかったんです」

──あなたは、いま仕事はされているんですか。

「持病があって、していません。その患者の会を立ち上げようとして、NPO法人を作りましたが……本当にほそぼそとやっている状態です」

──お母さんはいま、どうしておられますか。

「余命を告げなかったという後悔は、私ほどはないようです。しかし3年近く続いた介護のストレスで体調を悪くしてしまいました

 体格も威勢もいい父でした。問題はたくさんありましたが、映画やドラマに出てくるような雰囲気もあったんです。火葬場で焼かれてしまったあと、私はもう何だか分からなくなってしまいました。死ぬとはどういうことなのか。生きることはどういうことなのか。そして私自身のこともです。

 父が亡くなったのはもう1年前になるのですが、何日経っても昨日のことのようで、ちっとも風化していきません」

 男性はほぼ一人で語り続けました。

 母親はもちろん、親族や友人にもこうした胸の内を話すことはなかったのだそうです。がんにまつわる、とても重い相談です。

 続けて姿を見せた女性の相談者は、自分のがん治療についてでした。

「福祉施設で事務の仕事をしています、71歳です。今年の6月に膀胱がんが分かりまして、内視鏡手術を2度受けました」

──病院は、どちらに通っておられるんですか。

「〇〇病院、このあたりの拠点病院です」

──ああ、そこには以前、講演に行ったことがありますよ。いまはがんはどんな状態ですか。

「BCGというお薬を注入しています。これで半年後に検査をして、良くならなければ膀胱を取りましょうと言われているんです」

──膀胱がんは特徴のあるがんでね、表面に再発、多発することがありますね。その度にモグラたたきのように取っていくしかない。そういう人は多いですよ。

 丁寧に検査をしていけば、見つかったとしても早期ですから、それをまた取ればいいんです。治療ができているということは、いいことですよ。

「今日来たのは、勤め先の同僚に強く勧められたからなんです。がんが分かってから、どうも落ち込んでいると。私自身は、治療の悩みや痛みはそれほどでもないのですが、あまりに周囲の人に心配されるものですから、これからのことが気になるようになってしまって。

 がんって、難しいものですね。何か我慢すればよくなるんでしたら、喜んで何でもしますが、それではどうにもならないんですよね。なにかちょっと違った視点が持てないかなと思っています」

 ふたりの相談に耳を傾けながら、胸のうちに浮かんだ言葉は次のようなものでした。

「人間誰しも、役割がある。それを探しに行かなければならない」

 先述したように、閉じこもって自分のことを心配するのは、1日のうち1時間で十分です。それ以上すると、自分自身が不安や心配に押しつぶされてしまうでしょう。

 世の中には、困っている人が大勢います。

 パッと見ただけではわからなくても、周囲にも自分より困った人がたくさんいるものです。いま自分に何ができるのか、人のためになる能力が何か残されていないか考えてみることがひとつの転機になります。

 みずから進んで探しに行く、自分の陣営の外に出て行く、というのが重要です。陣営の外に出ることで、いま置かれた状況が八方ふさがりのようでも、天はいつも開いていることに気づけるからです。

デイリー新潮編集部

2019年8月20日掲載

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