“命のビザ”発給の決断を悩み、眠れぬ夜を…「日本のシンドラー」杉原千畝さんを支えた妻・幸子さん 「これまでの苦労が報われた思い」になった瞬間とは
前妻に靴をあつらえて送る
幸子さんは1913(大正2)年生まれ。郷里は岩手の遠野。両親は教師で転勤が多かった。作家志望の文学少女で、パリで美容院を開きたいとも考えていたという。香川の高松高等女学校を卒業後、上京した。
一方の千畝さんは、ハルピン学院を卒業、満州国の外交部でロシア通として高く評価されていたが、軍部の横暴を嫌い、1935年に外務省に。11年間連れ添ったロシア人とは帰国時に離婚した。
その年、24歳の幸子さんは東京で13歳年上の千畝さんと出会い「外国へ連れて行っても恥ずかしくない」と求婚された。千畝さんは前妻からしばらく金を無心され、1939年に着任し、ビザ発給の舞台となったリトアニアでも、
「前妻から靴が欲しいと足の型紙が送られてきた。あつらえて送ったと幸子さんはあっけらかんと話してくれました。気丈なんです」(幸子さんをよく知る人)
外務省から退職勧告、息子の死
ルーマニアのブカレストでドイツ降伏を迎え、3人の子供を抱えた夫妻は収容所に。1947年、帰国するも千敵さんは外務省から退職勧告を受け、まだ7歳の三男を病で失った。
千畝さんはロシア語を活かした多くの職場を経て、還暦を過ぎてから15年も商社員としてモスクワに単身赴任。1985年にイスラエルから最高位の勲章を受けた翌年に他界した。
「周りの勧めを受け、幸子さんが『六千人の命のビザ』を著し、講演を行うようになったのです。幸子さんの活動がなければ、千畝さんの功績は日本では再び埋もれたかもしれない」(渡辺さん)
「リトアニアが独立した後に、領事館の場所を訪ね、感慨深い様子でした。建物はアパートとして使われていて、3階には当時から住む人が健在で、再会を喜び合ったのです」(先の知人)
リトアニアへの思いは強く、2001年には56歳にして桜の植樹などを行った。
真に苦労が報われた瞬間
「日本のシンドラー」と称賛された千畝さんの行為を、国の手柄にすり替えようとする動きも出てきたが、
「退職を余儀なくされて苦労したことに思いはあっても、幸子さんは外務省を批判しなかった。千畝さんの生誕100年にあたる2000年、河野(洋平)外務大臣が幸子さんに直接謝罪し、外交史料館に顕彰のプレートが設置されたことで名誉が回復されたと感じていた。千畝さんを冒漬する虚偽にあふれた本には名誉棄損の裁判を起こし、勝訴したこともあります」(渡辺さん)
亡くなる5年程前に脳梗塞に倒れ、2008年9月に肺炎を起こした。同年10月8日、94歳で逝去。幸子さんはユダヤ人との再会を、後にこう語っている。
「主人が書いたビザを見せてくれました。ボロボロになっても大切に持っていてくれた。行為が無駄ではなかったことを知った時に、初めてこれまでの苦労が報われた思いがしたのです」
夫妻にとっては、これで十分だったのだろう。






