“命のビザ”発給の決断を悩み、眠れぬ夜を…「日本のシンドラー」杉原千畝さんを支えた妻・幸子さん 「これまでの苦労が報われた思い」になった瞬間とは
「命のビザ」発給の陰で
2008年10月8日、1人の日本人女性がその激動の生涯を閉じた。杉原幸子さん、享年94。1940年夏、ナチスドイツの迫害から逃れようとするユダヤ人難民たちに日本通過ビザを発給した元駐リトアニア領事代理、杉原千畝(ちうね)さんの妻である。
【写真】リトアニアは杉原さんを忘れない…旧日本領事館の建物は記念館に
命のビザとは、杉原さんが発給した日本通過ビザと日本入国時に必要な“目的地ビザ”を合わせたものだった。その目的地はオランダ領キュラソー島。当時のオランダ領事代理、ヤン・ズワルテンダイクさんが「島の上陸にビザは不要」と保証する名目上のビザを発給し、そこに杉原さんが日本通過ビザを付け加えた。
発給の決断に際し、千畝さんは深く悩んだ。そんな夫を支え続けた幸子さんは、夫の没後に著書『六千人の命のビザ』『杉原千畝物語 命のビザをありがとう』で功績を伝えた。週刊新潮の長寿連載「墓碑銘」でその生涯を振り返る。
(「週刊新潮」2008年10月23日号「墓碑銘」を再編集しました。文中の肩書き等は掲載当時のものです)
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人間として当たり前のこと
1940年7月、リトアニアのカウナスにある日本領事館にビザを求めるユダヤ人が押し寄せた。領事代理の杉原千畝さんは、ナチスに追われる難民を救うため、ビザ発給を外務省に打診するが拒否される。
妻の幸子さんは、〈ビザ交付の決断に迷ひ眠れざる 夫のベッドの軋(きし)むを聞
けり〉と詠み、自身も母乳が止まるほど神経をとがらせた。
領事館閉鎖までの約1カ月間、訓令に背きビザを書き続け、数千人の命が救われた。日本で注目されはじめたのは、40年以上も過ぎた1980年代だ。
「たいしたことをしたわけではない、人間として当たり前のこと、と千畝さんと幸子さんは家族の中ですら話題にしなかったのです」
と、杉原千畝研究会の代表で、大正出版社長の渡辺勝正さんは続ける。
「ユダヤ人社会は命の恩人を探していたが難航。1968年に再会を果たします。この縁で四男の伸生さんがヘブライ大学に給費生として招かれたことを報じる記事が、この逸話が日本で公になった最初です。イスラエルから勲章を受けても夫妻は騒がれることを好まなかった」
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