日本国憲法をめぐる交渉は「背水の陣だったんだよ」とホイットニー少将は語った…GHQの幹部たちに徹底取材 「下山事件」の“キーマン”シャグノン大佐が明かした衝撃のひと言
週刊新潮に1968年8月~1969年6月にかけて連載された「マッカーサーの日本」には、いわゆる“GHQのスター”が、続々登場する。それまで多くの日本人が、新聞・雑誌や映画館のニュース映画でしか知らなかった有名人が、毎週のように週刊新潮の誌面に写真入りで登場し、往時の内幕を証言した。
たとえば――新憲法草案会議の責任者である、民政局長、コートニー・ホイットニー少将。1946年2月13日、吉田茂外相や白洲次郎氏(終戦連絡事務局次長)らに新憲法草案を「突きつけ」て、「強制的に了承させた」といわれた人物である。週刊新潮取材班は、ワシントン郊外の高級ホテルに住むご本人のインタビューに成功する――《一週間で作られた憲法草案》。ホイットニーは当時79歳、病院を出たり入ったりの生活だった。会見場所は「マッカーサー記念館」の一室となった。(前後編の後編)
(この連載は、1970年に新潮社で単行本化された際、大幅に構成が変更され、収録順や章題、文章などの細部も改訂されています。ここでは、1983年初刊の新潮文庫版をもとに紹介しています)
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「新憲法は押しつけではない」――ホイットニー少将の証言
〈「2月13日の吉田氏らとの会見は、こちらも背水の陣だったんだよ。あの時ああやらなかったら、占領はもっと長引いていただろう。あのころ、国務省も極東委員会も、それぞれもっと別の日本統治案を持っていた。事情もわからない連中に、日本を任せることはできなかったんだ……」
黒スーツ姿の将軍は、明るい表情で語った――憲法は決して“押しつけ”ではなく、民政局草案は、あくまでも日本側と「話し合って」作っていくための基礎資料に過ぎなかった。戦争放棄は幣原喜重郎総理の発案になるもので、あれが今の日本に適合するか否かは、日本人が考えるべき問題だ。吉田茂氏は自分を嫌っていたらしいが、自分は吉田氏を尊敬していた……ことなどを説明した。〉
ホイットニーは、このインタビューの半年後、逝去した。
諜報・治安を担当するGHQ参謀第2部(GII)部長、チャールズ・ウィロビー少将も登場する。徹底的な反共主義者で、ホイットニーの民政局と対立しながら数々の対日謀略に関与したといわれる。松本清張氏の『日本の黒い霧』にも登場する、“謎の重要人物”だった。
当時のウィロビー将軍もすでに76歳。体調を崩し、フロリダの避寒地に移り住んでいた。取材班を自宅に招き入れてくれたが、昼間から寝間着姿で、写真撮影は拒否された。それでも、日本を共産主義者から守るためにいかに腐心したかを語りはじめると、とたんに気力を取り戻した――《ウィロビー少将の「わが闘争」》。
〈「占領初期、ロシアが大きな陰謀を持っていたのだ。彼らはシベリアに日本の将兵を抑留して洗脳を企てる一方、日本国内では旧高級将校たちに何千ドルという金塊を与え、手中に収めようとしていた。優秀な日本軍人を集めて、一夜にして日本に赤軍を作ろうと企んでいたのだ……」〉
取材班は、やはり民政局との対立問題が気になっていた。
〈――民政局と対立したようだが?
「そうとも。(略)民政局の連中は“よそ者”なんだよ。ワシントンから来た共産党シンパなんだ。しかし、私は人を見分ける方法を知っている。自由主義者と称するヤツのツラの皮をむいてみろ。その下から共産主義シンパの顔が出てくる。私は70人ばかり、そういうヤツを見つけ出して本国へ追い返してやった」〉
これが、いわゆる“GHQ内の粛清”と呼ばれる強制人事だった。
〈「ポツダム宣言は、厭戦ヒステリーの空気の中で作られた。そして戦犯逮捕などというバカげたことをやった。陸軍省など日本の政府機構はそっくり残しておくべきものだった。戦争責任者は静かに引退させて、公職につかせないようにするくらいで十分だったのだ。マッカーサーも戦犯裁判には反対だった」〉
アメリカ側に、このような考えの軍人がいたことは驚きだった。だが……帰り際、ウィロビーは記者に、ある貴重資料の保管機関を教えてくれて「私がOKしたといえば大丈夫だ」と太鼓判を押してくれた。だが、記者が〈そこに当たってみると、ケンもホロロの扱いで、断られた。米陸軍の戦史のなかでもチャールズ・ウィロビー少将は、すでに、三枚目の扱いを受けている。〉
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