1日に何十人もの米兵と……! 歴史の闇に葬られた「日本の慰安婦」たち

社会2018年7月30日掲載

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 太平洋戦争終結から73年。戦争を知っている世代が絶える時も着々と近づいているが、歴史にはまだまだ埋もれた秘話がある。たとえば、日本にも「慰安婦」がいたという不都合な真実――。

 終戦から2日後の8月17日、東久邇内閣が成立。最初の閣議後すぐに、国務大臣の近衛文麿は警視総監の坂信彌に対し、「日本の娘を守ってくれ」と依頼した。坂はすぐさま東京都料理飲食業組合の役員2名を呼びつけ、「特殊慰安施設協会」(通称RAA)の設立を指示。設立声明では「狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純潔を百年の彼方に護持培養すると共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす」と謳った。(RAA協会沿革誌より)

「進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」という求人看板が銀座のど真ん中に立ち、8月27日には慰安所第1号として「小町園」が東京都大田区に開業。終戦から2週間足らずである。開業までのスピードも目覚ましかったが、規模も空前絶後だ。小町園を皮切りに、立川、調布、福生、北多摩、築地、人形町、向島などに次々と慰安所が開業、千人規模の慰安婦を募集する求人広告が新聞紙上を頻繁に賑わせた。5千人の女性が慰安婦として肉体を酷使したとされる。

 集められた慰安婦たちは大部屋をカーテンなどで仕切っただけの場所で、1日に何十人もの米兵の相手をさせられた。60人という記録もある。数十分に1人とセックスした計算だ。当然、劣悪な環境下で性病にかかったり、腰が立たなくなったり、精神に異常を来す女性が続出。鉄道に飛び込んで自殺した19歳の女性もいた。慰安所では毎日血にまみれた洗濯物が風にひるがえっていたにちがいない。「日本の娘を守ってくれ」の結果が、この阿鼻叫喚の風景だったのである。

 RAAをとりあげた小説『水曜日の凱歌』(乃南アサ著)にこんな一節がある。慰安婦たちと同居することになった14歳の少女の前で警察官に、ある慰安婦がこう絶叫するのだ。「日本の男ども! 誰もかれも、女のまたの間から生まれたくせに、その恩も忘れやがって、利用するときだけしやがって! 戦争中は『産めよ殖(ふ)やせよ』で、戦争に負けた途端に、今度は同じまたを外人どもに差し出せとは、何ていう節操のなさなんだっ!」。見てはいけないものを見てしまった多感な年頃の少女の気持ちを思うと切ない。

 占領軍は1946年3月、兵士に性病が蔓延するのを怖れ、慰安所への立ち入りを禁止した。「民族の純潔」という美辞麗句のために売り飛ばされた上、今度は職を失った「新日本女性」たちは、街娼となって街の闇へと消えていったのであった。

デイリー新潮編集部