日本国憲法をめぐる交渉は「背水の陣だったんだよ」とホイットニー少将は語った…GHQの幹部たちに徹底取材 「下山事件」の“キーマン”シャグノン大佐が明かした衝撃のひと言
ついに取材に応じたケーディス大佐
そんな“GHQのスター”たちのなかで、日米すべてのマスコミの取材に応じず、表に出ない大物がいた。民政局次長、チャールズ・ケーディス大佐である。新憲法草案作成の中心的人物といわれた。また、女性関係も華やかで、特に、鳥尾鶴代・子爵夫人との“不倫関係”は、世間の耳目を誘った。
取材班は、あらゆる方法で彼に接触しようとするが、応じない。やがて本人から手紙が来て「やはりお断りしたいという結論に達しました。それはたぶん、私の“無名でいたいという情熱”のせいでしょう」とあった。
取材班は、それでもあきらめない。今までの取材で得た材料を長いレポートにまとめ、ケーディスに送った――〈1948年10月、民政局が後押しする芦田連立内閣が昭和電工疑獄事件で倒れ、次いで吉田茂の再登場を阻止しようとしたが果たせず、それによって最も失望したのはケーディス次長であった〉と書いた。吉田茂は、GHQ民政局にとって、やっかいな“ライバル”だったのである。
1週間後、ついに本人から電話が来た。「私は“完全無条件降伏”します。会ってしゃべろうじゃありませんか」――《ケーディス大佐の情熱と挫折》。ケーディスは当時63歳、ウォール街で弁護士をつとめていた。高層ビルの会員制レストランのランチで会ったが、インタビューはえんえんと夜までつづき、場所を自らの事務所に移し、夕食をはさんで計11時間におよんだ。だが話の中心は、当時かかわりのあった人物についての印象話に終始していた。残念ながら、そのなかに、鳥尾夫人の話題はない。
新憲法の精神を実現してくれる政治家は、民政局にとっては、社会党のキリスト教徒、片山哲であった。マッカーサーも、片山内閣を援護射撃していた。
〈「われわれは片山が好きだった。彼は吉田のように私をよけて通らなかったから(笑)。われわれは片山が首相に選ばれたことを好ましく思っていた。彼は左右両陣営の中央にいて、穏健な調停者としての役割を守り通した。彼が総辞職すると言いだす(1948年2月7日)前の晩、私は彼のディナーに招待されていた。その席で鈴木茂三郎(のちの社会党委員長)が立って“片山氏を首相として紹介するのはこれが最後です”といった」〉
ケーディスの事務所には、ライバルだったはずの吉田茂の写真が掲げられており、吉田自身の「敬意をこめて」の肉筆サインが入っていた。だがその写真は、ひどいピンボケだったという。
そして、連載がそろそろ終盤に入った第42・43回で、取材班は、ついに“戦後史最大の謎”に挑む。〈下山事件について何かをつかみたい、という願望は、この占領シリーズ企画当初からわれわれの中にあった。〉――《下山事件、二つの証言》である。
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