“歌舞伎を救った米軍将校”“天皇会見に臨んだ従軍記者”の肉声…週刊誌ノンフィクションの金字塔「マッカーサーの日本」が描いた“占領下”の真実

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近衛文麿を自殺に追い込んだ〈戦略爆撃調査団〉とは

 この“忍者集団”、〈戦略爆撃調査団〉が、政治家や軍人に苛烈な尋問を行った……近衛はそのあまりの厳しさに耐えられず、自殺に至ったのでは、との噂が絶えなかった。ではいったいどのような尋問だったのか。具体的に近衛を追い詰めたのは誰か。なにしろ“忍者”なので、誰も知らない……。

 だが週刊新潮取材班は、ついにCIAの管理下にあった「尋問報告書」全文を入手する。――《戦略爆撃調査団と近衛公の運命》。この章は、大きく紙幅が割かれており、取材班が特に力を入れて取材、執筆したことがわかる。尋問した当事者は、〈調査団の中でも最も切れ者の、副団長ポール・ニッツ氏〉だった。

ニッツ「陸軍は戦争終結のためにどんな計画を持っていたのか」

近衛「(略)あくまで戦い抜くということだ。だから、もし天皇の決断がなかったら、われわれはいまだに戦っていたであろう」

ニッツ「私の質問は1941年の秋、陸軍はいかなる方法をもって戦いを終わらせようと思っていたのか、ということだ」

近衛「私は、そのようなことは聞いたことはない。事実、そんなプランは何もなかったと思う」

ニッツ「ではあなたの意見だと、陸軍は何ら戦争終結の見込みのないままに戦争に突入したことになる。終わりなき戦いを挑んだというわけか」

近衛「(略)結論として軍隊は、何ら終結の具体案を持っていなかったということになる」〉

 シンプルな日本語の直訳だが、かなり厳しい口調で詰め寄っている様子が想像できる。近衛は、東条英機・軍閥内閣誕生直前の総理大臣だった。だから、相応の責任があり、開戦への過程を承知していたはずだ、その責任をどう感じているのか――というのが“忍者集団”の見立てだった。

ニッツ「くりかえして聞くが、あなたは戦争になった場合、日本がどのような状態になると考えていたのか。また戦争をどのような計画を持って、どう展開しようとしていたのか。(略)あなたは1941年12月の時点ですでに日本は戦争を成功裡に収拾することはできないと思っていた、と、こういうわけか」

近衛「まったく、あなたのいわれるとおりだ。全然、チャンスはないものと思っていた」〉

 尋問は3時間におよんでいた。そして週刊新潮はこのポール・ニッツ氏本人を探し出し、インタビューに成功する。取材当時、米国防総省次官の要職にあった。本人は、こう答えている。

〈「私の通訳が、“ニッツさん、あなたのその言葉づかいでは、お望みどおりの答えは得られませんよ”と忠告してくれた。その時私は、あまりにもまっすぐにポイントを突き過ぎていたようだ。(略)プリンス近衛尋問の場合には、たしかに、この丁重さという点について、われわれの認識がいささか不足していたようだ」

“反省”ともとれるが悪びれたところはひとつもない。では、当時あなたは、近衛公自殺の第一報を聞いてどう感じられたか――。この質問に、彼はただ一言、答えた。

「私は、非常に失望した」〉

『マッカーサーの日本』には、このほか、流出美術品、東京ローズ、占領下の風俗など、興趣あふれる話題が次々と登場する。だが圧巻は、後半部分だ。新憲法草案を8日間で書き上げたといわれながら、絶対にマスコミに登場しなかった“日本改革の旗手”ケーディス大佐の独占会見。そして――執念でたどりついた、下山事件の“重要人物”インタビューである。

※記事(文庫版)の引用は、主旨を変えない範囲内で、一部文章を修正しています。記事内容は、あくまで連載取材・執筆当時のものであり、その後の調査研究で、新しい事実が発見されている事項もあることをご了承ください。

【後編は「日本国憲法をめぐる交渉は『背水の陣だったんだよ』とホイットニー少将は語った…GHQの幹部たちに徹底取材 『下山事件』の“キーマン”シャグノン大佐が明かした衝撃のひと言」

森重良太(もりしげ・りょうた)
1958年生まれ。週刊新潮記者を皮切りに、新潮社で42年間、編集者をつとめ、現在はフリー。音楽ライター・富樫鉄火としても活躍中。

デイリー新潮編集部

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