“歌舞伎を救った米軍将校”“天皇会見に臨んだ従軍記者”の肉声…週刊誌ノンフィクションの金字塔「マッカーサーの日本」が描いた“占領下”の真実
天皇独占会見記の“真実”
昭和天皇への単独インタビューを成功させた、ニューヨーク・タイムズのフランク・クラックホーン記者(取材時61歳)も登場する――《“天皇会見”を成功させた従軍記者》。
当時東京にいた250人もの外国人記者全員が「ヒロヒト」の単独インタビューを狙っていた。クラックホーンはワシントン政治部時代に知り合っていた近衛文麿(当時、国務大臣)のルートで、戦後最初に天皇に会うアメリカ人となることができた。1945年9月26日、クラックホーン記者は皇居へ入る。
〈「和田倉門から宮内省ビルの玄関に乗り込むと、侍従長が三度、腰まで頭を下げた。(略)閲見室の敷居の外で私は立ち止まった。天皇は玉座の前で立っていた。」〉
ところが……、
〈直接天皇に質問することはできなかった。そうしないという条件で会見は許されたわけで、質問と回答は書面でやることになっていた。だからクラックホーン記者は、天皇に“取材”に行ったのではなく、「見に」行って来たわけである。(略)モーニング姿の天皇は、通訳を通して、戦闘服を着て会いに来た外人に1フィートの距離から「力をこめて」言葉をかけた。「お前はどこから来たのか? 日本の事情を、外国に正確に報道するよう望んでいる」。クラックホーン氏は「努力しましょう」と答える。〉
会見は10分で終わり、質問状の回答は、帰りに宮内省で「書面」で渡された……。
ところで、この会見を陰でセッティングしてくれた近衛文麿に戦犯容疑で逮捕令が出たのは12月6日だった。そして近衛は、12月16日、青酸カリによる服毒自殺を遂げる。54歳の若さだった。
実はこのころ、アメリカから、トルーマン大統領直属の“隠密機関”と呼ばれた〈戦略爆撃調査団〉なる組織が来日していた。建て前はアメリカが行った空襲や原爆投下の“効果”を調査する団体だが、実態は、戦争責任の実態を徹底的に調べ上げる〈背広を着たインテリの忍者集団〉だった。
[3/4ページ]


