被爆「原爆乙女」25人の渡米治療に尽力…「なぜ」を問われた米国人ジャーナリストの回答「心中の願いに従って最善の努力を」
被爆者の救済と世界平和の達成に尽力
第1回【手術と治療のため米国に招かれた「原爆乙女」25人 昭和の終わりに吐露した心情「人間万事塞翁が馬」「受けたものでないと分からない苦しみ」】を読む
爆風と火災で壊滅状態となった街、無残に焼け焦げた遺体、重度の熱傷を負った人々――。1945(昭和20)年8月6日に広島、9日には長崎に原子爆弾が投下された。
それから10年、広島で被爆した女性たち「原爆乙女」25人が、手術と治療のために米国へ旅立った。渡米に尽力したのは、米国人ジャーナリストのノーマン・カズンズ氏。被爆者の救済に尽力したカズンズ氏は、原爆孤児に養育費を送る運動も立ち上げていた。
世界平和の達成に向けて活動を続け、米国では被爆者救済以外の功績でも知られるカズンズ氏。「週刊新潮」のバックナンバーでその生涯を振り返る。
(全2回の第2回:以下、「週刊新潮」1990年12月13日号「墓碑銘」を再編集しました。文中の年齢等は掲載当時のものです)
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原爆投下を知り「目の前が真っ暗」に
戦後、原爆孤児の救済や原爆乙女の渡米治療に尽力し、広島市から特別名誉市民の称号を贈られた米誌「サタデー・レビュー」の元編集長ノーマン・カズンズさんが、1990(平成2)年11月30日、心不全のため亡くなった。75歳だった。
カズンズさんは1915(大正4)年、米国ニュージャージー州生まれ。コロンビア大学教育学部卒業後、記者となり、1940(昭和15)年「サタデー・レビュー・オブ・リテラチュア」(土曜文学評論)に入社。2年後に編集長となった。
しかし、1945(昭和20)年8月、広島に原爆が投下されたことを知ると、「目の前が真っ暗になり、新しい時代に不吉な予感を抱く」ようになった。
そして、それがさらに増幅したのは昭和23年のこと。この年に渡米した、自らも被爆者であった広島市の日本キリスト教団流川教会の故・谷本清牧師から、原爆孤児や原爆乙女の惨状を聞かされてからだった。
自分の人生は自分で開拓するもの
翌年、広島を訪れたカズンズさんは、帰国するとすぐ「サタデー・レビュー」誌に、原爆孤児の里親となって養育費を送る「精神養子運動」を提唱した。その結果、約1000人の「里親」が生まれ、約400人の原爆孤児の世話をすることとなった。
カズンズさんの“里子”となった農協職員の下口輝明さんは当時を回想して、こう語る。
「カズンズさんは人当たりが優しく、人間的なものをすべて備えていた。何になれとか出世しろとかは言わなかった。“自分の人生は自分で開拓するものだ”とそれだけを教えられた」
1953(昭和28)年、再度、広島に来たカズンズさんは、谷本牧師の案内で原爆乙女の苦境をつぶさに見聞した。そこで、外科医学の専門部門としての形成外科が日本に確立されていないことを知り、渡米させて治療することを考えた。
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