被爆「原爆乙女」25人の渡米治療に尽力…「なぜ」を問われた米国人ジャーナリストの回答「心中の願いに従って最善の努力を」
死去の数カ月前に原爆乙女たちと再会
平和主義者、世界連邦主義者として知られ、1963(昭和38)年にはキューバ危機をうけて、当時のケネディ大統領の特使としてフルシチョフ・ソ連首相と会談した。
昭和46(1971)年に「サタデー・レビュー」誌を退職。膠原病に侵されたが民間療法で克服し、この体験を著作にして発表、医学博士号を授与されて、カリフォルニア大ロサンゼルス校医学部で教鞭をとっていた。
死去する約7カ月前の4月にも広島を訪れ、原爆乙女たちと再会を果たしたばかりだった。突然の死に彼女たちは「肉親を失った以上のショックを受けた」という。そして、エレノア夫人は、
「夫にとってヒロシマは第二の故郷。夫の生前の願いは“自分の遺灰の一部をヒロシマの上空にまいて欲しい”と言うことだった。その遺志を実現したい」
と語っている。
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世界平和には努力が必要
カズンズさんはニューヨーク市のマウント・レバノン墓地で永遠の眠りについた。現在も広く語り継がれている広島関連の功績に加え、米国では優れたジャーナリストとしても記憶されている。核軍縮、世界平和に向けた言論活動を積極的に行い、先の記事中にあるケネディ大統領の特使としての役割は、部分的核実験禁止条約の締結に結びついた。
世界平和に向けた動きは生涯にわたり、エレノア・ルーズベルト平和賞(1963年)、国連平和メダル(1971年)、アルベルト・シュバイツァー人道賞(1990年)などを授与された。並行して、1964年に突然発病した膠原病と闘ったが、その方法はビタミンCを注射して心から笑うという、人間の感情が持つ力を信じたものだった。その詳細は1979年出版の著書に記されている。また晩年は心臓病とも闘い、多数のノンフィクションを執筆した。
遺灰は広島に撒かれなかったが、平和記念公園の南側に記念碑が建立された。2003年8月2日の除幕式にはカズンズさんの娘・アンドリアさんや米国在住でかつて原爆乙女だった笹森恵子(しげこ)さんらが出席。記念碑にはカズンズさんの言葉がこう刻まれている。
「世界平和は努力しなければ達成できるものではない 目標を明確に定め責任ある行動をとることこそ人類に課せられた責務である」
「戦後43年間の苦しみは、受けたものでないと分からない」――。第1回【手術と治療のため米国に招かれた「原爆乙女」25人 昭和の終わりに吐露した心情「人間万事塞翁が馬」「受けたものでないと分からない苦しみ」】では、昭和の終わりを迎えた時点での原爆乙女たちの声を伝えている。
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