「自分の肩の肉を口に…」 世代を超えて見てほしい戦争映画の傑作10選
監督と上層部の攻防
映画観客数がピークとなる11億2700万人を記録したのは1958(昭和33)年。9年後の1967(昭和42)年には3億3500万人にまで減少していた。この年、東宝の「日本のいちばん長い日」は年間興行成績2位を邦画部門で記録する大ヒットとなった。終戦を巡る、陸軍と近衛師団の一部によるクーデター未遂、いわゆる宮城事件が描かれたが、これ以前にも東映の「黎明八月十五日」(1952)、新東宝の「日本敗れず」(1954)、「八月十五日の動乱」(1962)などで同じ事件が取り上げられていた。東宝は豪華キャストとスケールの大きさを売り物に拡大再生産したのだ。
ここから東宝の「8.15シリーズ」が始まり、「連合艦隊司令長官 山本五十六」(1968)、「激動の昭和史 軍閥」(1970)などが製作され、いずれもヒットした。特筆すべきは岡本喜八が監督した「激動の昭和史 沖縄決戦」(1971)だろう。沖縄戦の凄惨な状況を、ドキュメンタリータッチで描き、安易なヒューマニズムに堕しない戦争映画の極北を作り上げた。
大手映画会社が製作しながらも、監督の作家性を色濃くにじませたものに、中島貞夫が監督した東映の「あゝ同期の桜」(1967)がある。海軍飛行予備学生第十四期会の手記を原作にしたもので、そこに登場する潜航艇〈回天〉の訓練中に死亡した和田稔は、中島の友人の兄だった。中島は、監督になった暁には映画化したいと思っていた。
映画は特攻隊の若者を描く物語として完成したが、東映上層部からの反応が悪かった。理由は特攻隊の死をどう捉えるかにあった。ラストシーンは、敵の艦隊に突入しようとする特攻機(敵側が撮影した記録映像)が、ストップモーションになり、「その瞬間彼等はまだ生きていた」という文字が重なる。次に「この時から僅か四ヶ月 戦争は終った」と出てエンドマークとなる。しかし、編集段階では、ストップモーションになっていた映像が再び動き出し、特攻機が敵艦に当たらず海中へ没するカットが入っていた。これは、父を戦争で亡くした中島の「天皇陛下に命を賭けた、賭けさせられた。その人たちの死があったから平和になったなんて、そんなまやかしのお題目はないと思うんです」(『遊撃の美学 映画監督中島貞夫』ワイズ出版)という考えを反映させたものだった。しかし、会社からは、「これでは左翼の映画だ」と反対され、妥協せざるを得なかった。
右派左派の双方を刺激
1970年代に入ると、斜陽の映画界は、いよいよ窮地に立たされる。大映は1971(昭和46)年末に倒産。五味川純平の同名小説を映画化した9時間半に及ぶ大作「戦争と人間」3部作(1970~73)を作った日活も、その途上で一般映画からロマンポルノへ路線変更していた。東宝の「8.15シリーズ」も終了し、大作戦争映画は日本映画から姿を消した。
そうした時代だからこそ、隠れた秀作が生まれることもあった。東映の「ルバング島の奇跡 陸軍中野学校」(1974)は、小野田寛郎元少尉がフィリピンのルバング島から戦後29年を経て帰国したのに合わせた便乗映画だ。小野田自身を描く企画だったが、本人の反対によって急きょ、陸軍中野学校の話に変更され、戦時中の国家観とも異なるスパイ教育を冷徹なタッチで描いている。菅原文太が演じる教官が訓練生たちに「もし、日本民族の存続にとって天皇が障害となるようなことがあったら、俺は日本民族を選ぶ」と長々と説く場面など、小野田の帰国から3カ月後に公開された即席映画だからこそ潜りこませることができたせりふだろうと思わせる。監督の佐藤純彌は、陸軍内務班を描いた「陸軍残虐物語」(1963)、過去と現在を交錯させて戦艦大和を見つめた「男たちの大和 YAMATO」(2005)など、右派左派の双方を刺激する戦争映画を撮り続けた。
1978(昭和53)年7月5日の「日刊スポーツ」は、東映が来年早々「乃木大将と日露大戦争」の撮影を開始し、続いて第2部「大日本帝国」、第3部「大日本帝国の崩壊」が製作予定と報じている。〈1980年代の戦争映画〉が動き始めた。「乃木大将と日露大戦争」は「二百三高地」(1980)の題名で公開されて大きな話題を呼び、「大日本帝国」(1982)、「日本海大海戦 海ゆかば」(1983)が連作された。東映に続いて東宝も得意の特撮を駆使した大作戦争映画の製作を再開。「連合艦隊」(1981)、「零戦燃ゆ」(1984)が作られた。
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