「自分の肩の肉を口に…」 世代を超えて見てほしい戦争映画の傑作10選

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タブー破りともいえる戦争映画が登場

(1)庶民や若者が翻弄される悲劇的な反戦映画。【「ひろしま」(1953)、「私は貝になりたい」(1959)、「火垂るの墓」(アニメ版1988、実写版2008)、「黒い雨」(1989)など。】

(2)戦争指導者たちも苦悶し、平和を求める努力をしていたのだという戦時中の英雄への再評価。【「軍神山本元帥と連合艦隊」(1956)、「大東亜戦争と国際裁判」(1959)、「プライド・運命の瞬間」(1998)、「聯合艦隊司令長官 山本五十六」(2011)など。】

(3)特撮を駆使した戦争スペクタクル。【潜水艦イ-57降伏せず」(1959)、「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」(1960)、「太平洋の翼」(1963)、「太平洋奇跡の作戦 キスカ」(1965)など。】

 やがて、こうしたパターンに収まらない戦争映画を作る会社が現れた。劇映画に初めて天皇を登場させた新東宝の「明治天皇と日露大戦争」(1957)は、日本映画史上空前の観客動員を記録した。それに気を良くした同社は「天皇・皇后と日清戦争」(1958)、「明治大帝と乃木将軍」(1959)、「皇室と戦争とわが民族」(1960)などを不敬の声を押しのけて連作する。

 このタブー破りともいえる戦争映画に刺激されたのか、1959(昭和34)年は、従来の枠組みから逸脱する戦争映画が相次いで製作された年となった。

上官殺害に人肉食……

 大岡昇平の同名原作を映画化した市川崑監督による大映の「野火」は、戦場における人肉食の問題にまで踏み込み、極限状態の人間を映し出した。同じ年には旧満州を舞台に、五味川純平原作の全6部9時間半に及ぶ松竹の超大作「人間の條件」(~1961)が登場し、戦争映画は多彩な広がりを見せ始める。

 東宝が製作した岡本喜八監督の軽妙な戦争アクション「独立愚連隊」が公開されたのもこの年だった。西部劇のように北支戦線で戦う日本兵が描かれたことで、戦争の反省が風化した象徴と指摘されることもあった。後に岡本は、「愚連隊小史・マジメとフマジメの間」と題した小文のなかで、「戦争は悲劇だった。しかも喜劇でもあった。戦争映画もどっちかだ。だから喜劇に仕立て、バカバカシサを笑い飛ばす事に意義を感じた」(「キネマ旬報」1963年8月下旬号)と戦争映画観を記している。

 もっとも、岡本は〈フマジメな戦争映画〉ばかりを撮っていたわけではない。東宝の大作「日本のいちばん長い日」(1967)の監督に抜てきされ、終戦を巡る群像劇を堂々たるスケールで描いた。だが、〈マジメな戦争映画〉を撮ったことを恥じるように、直後には製作費1千万円の低予算ながらも、太平洋を漂うドラム缶で敵を迎え撃とうとする敗戦を知らない青年を主人公にした「肉弾」(1968)を撮り、〈マジメとフマジメの間〉で戦争映画を撮る矜持を見せた。

 大作の直後に小品の戦争映画を撮った監督に深作欣二もいる。日米双方から真珠湾攻撃を描いた20世紀フォックスの超大作「トラ・トラ・トラ!」(1970)の日本側監督を、深作は舛田利雄と共に受け持っていた。監督は当初、黒澤明が務めたが、海軍出身者などから主要キャストを集めた独創的な戦争映画になる予定だったところさまざまな齟齬(そご)が重なり、降板していた。後任の深作は、高額な監督料を手にしたが、その資金で結城昌治の直木賞受賞作「軍旗はためく下に」(1972)の映画化権を購入。独立プロダクションで映画化を実現させた。敵前逃亡によって戦地で死刑に処せられた兵士の妻が、死の真相を探っていく中で、上官殺害、人肉食などが明かされる。大手映画会社では実現不可能な戦争の厳しい実相を観客に突きつけた。

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