袴田巖さんと姉のひで子さんに届いた、東京高検“抗告断念”の一報。その時、2人は…居合わせたジャーナリストの証言

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居合わせた袴田さん宅で朗報の一報

 そして運命の3月20日になる。弁護団はもちろん、新田渉世氏,真部豊氏らボクシング関係者、日本国民救援会の瑞慶覧淳氏ら支援者たちは、最後の最後まで抗告断念を訴える。山崎さんこの日、東京高検前で支援者らと最後の「座り込み」を行っていた。

 一方、その日、筆者は約束していた午前10時に、浜松市のひで子さん宅を訪れた。巖さんは食卓で朝食のデザートを食べていたが、食べ終わるとテレビのある部屋に戻った。外では早くも若い記者やカメラマンたちが大勢、待機している。深夜12時が期限だが、特別抗告云々がこの日にどうなるのかは記者クラブに属していない筆者にはわからない。

 そうした中でひで子さんは「4時から東京の記者会見があって、私はここでリモート会見ですよ」とのこと。「じゃあ、リモート会見しているところを取材したいので、夕方また来ますから」とお願いすると、ひで子さんは「どうぞ、どうぞ」と応える。

 そして午後4時に再訪した。「袴田さん支援クラブ」の猪野待子さんが先に居た。人の手を借りずとも自分でパソコンを扱えるひで子さんは、東京の記者たちとのリモート会見の準備をしていた。

 会見が始まり、ひで子さんの様子を撮影していた。そうこうするうち、午後4時半前だったか、猪野さんがひで子さんを「来てえ、おねえさーん」と玄関に呼んだ。そして、「抗告断念だって」と叫んだ。東京にいた同クラブの白井孝明氏からの一報だった。

「やったあ」と声を上げ、玄関に貼ってある巖さん主演のドキュメント映画のポスターの前で抱き合いくるくる回る2人の写真を撮った。3人で狂喜した直後、巖さんが地元支援者の清水一人さん(74)が運転するドライブから帰宅した。

 巖さんはソファにどかっと腰を下ろした。

 ひで子さんは、「よかった。よく頑張った。偉かった。もう安心しな。巖の言った通りになったね」と駆け寄り、頬を寄せんばかりに伝えた。本人はぽかんと座っていたが、感動的な光景を猪野さんと2人だけが撮影できた。

「握手していいですか?」と「世界一の姉」に握手を求めた筆者は、思わず涙ぐんでしまったが、情けない筆者を見上げながらも、ひで子さんは朗らかに笑っていた。

 外で待っていた報道機関のため、ひで子さんは笑顔で青空会見をしていた。続いて猪野さんもこの日の経緯を説明し、彼女が撮影した劇的な場面の動画をテレビ局に渡していた。さらに、猪野さんは報道陣に「ひで子さんが喜んで伝えても、巖さんは反応がなかった。対照的だった2人の姿こそが、この事件の残酷さを象徴していると感じました」などと話していた。身近に接してきた支援者だからこその思いだろう。

西嶋弁護団長の涙

 弁護団は、抗告断念が決まった直後の午後4時30分から都内で会見を開いた。

 小川秀世事務局長(70)は「僕は検察にありがとうって言ったんですよ。嬉しかったもんだから」と涙顔。そして西嶋氏は「袴田巖さんに一日も早い再審開始を」と声を絞り出した時、声が詰まって下を向いてしまった。テレビで会見を見た筆者は、初めて目にする西嶋氏の涙に、再び胸が熱くなった。

「免田事件」など1980年代に相次いで雪冤した「4大死刑囚冤罪事件」の一つで同じ静岡県の「島田事件」などに関わってきた西嶋氏。間質性肺炎で酸素ボンベが離せず、毎回、車椅子で裁判所、検察との三者協議に駆けつけていた。小川氏が「もう再審開始決定は間違いない」と語っても「油断はできない」と戒めるようにいつも冷静沈着。上目遣いで記者たちを睨む眼光には迫力があった。

「昔の西嶋先生は怖くて話しかけられなかったですよ」と打ち明けるのは山崎さんだ。

「抗告された時の準備はしていた」という白井氏は、「西嶋先生が泣くのを見て私も泣いてしまいました」と話す。さらに後日、白井氏は、抗告断念が分かった瞬間についてこう振り返った。

「記者会見の準備をしながら西嶋さんと一緒に居たところ、4時15分頃、朝日新聞の記者がそこに来て、『抗告断念を固める』と書いた新聞の記事を見せました。西嶋さんに間違いないと伝えていたので、慌ててその様子を撮影しました。そしてすぐに浜松の猪野待子さんに電話したんですよ」

 翌3月21日付の朝日新聞の「時々刻々」には、「東京高検は最後の最後まで検討した」ということが詳細に書かれている。さっさと憶測記事を飛ばした新聞は大誤報だった。

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