袴田巖さんと姉のひで子さんに届いた、東京高検“抗告断念”の一報。その時、2人は…居合わせたジャーナリストの証言

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驚きの「検察は偉かったよ」

 この夜、静岡駅前のホテルアソシエで少人数の祝賀会があった。冒頭、西嶋氏は「会見では声が詰まってしまいました。息子には『お母さんが死んだ時も涙を見せなかったのに』と言われてしまいました」と参加者を笑わせた。

 ひで子さんが退席した後、映画監督の周防正行氏(66)や弁護団古手の田中薫弁護士(76)、元プロボクサーの新田渉世氏(55)らも次々と登壇して思い出などを語った。

 山崎さんの指名で筆者が語った発言を紹介する。

「袴田巖さんは現役時代、優しい性格が災いし、KOチャンスに相手を追い込めなかった。運動神経や根性は優れていましたが性格は格闘技向きではなかったかもしれません。(中略)

 抗告断念の報の直後から、多くの方から電話が入り、ひで子さんは応対していました。それを聞いて耳を疑いました。『嬉しい、ありがとう、ありがとうね』と礼を言ったあと、『検察は偉いよ、偉い、本当に偉い、偉かった』と言ったのです。聞き間違いかと思いました。こんなことが言える人がいるでしょうか。

 ひで子さんは優しいリングの弟さんと同様、KO寸前の検察を追い込まなかった。それどころか、白旗上げて立ち上がってきた検察を称賛したのです。ここまで度量の広い、心優しい姉と弟に対して、日本の検察組織は60年近くも塗炭の苦しみを味合わせたいたのです。昨日の『検察は偉いよ、本当に偉かったよ』という言葉。これを検事総長以下、検事すべてが聞いてほしい。彼らは表に出てきて2人に謝罪すべきです」

温厚紳士の歴史的英断

 さて、今回、抗告断念の最終決済をしたのは検事総長の甲斐行夫氏(63)である。大分県出身の甲斐氏は1982年に東大法学部を卒業し、84年に検察官に任官、釧路地検を振り出しに検察官人生を歩み、最近は法務省大臣官房審議官、青森地検検事正、最高検刑事部長など要職を歴任してきた超エリートだが、実は筆者と少しだけ接点があった。

 3歳ほど下の甲斐氏が釧路地検の「駆け出し検事」だった頃、筆者は通信社の釧路支局の記者だった。夏は運転も危なくなるような濃霧の中、「検察回り」と称して千代ノ浦海岸近くの釧路地検に好きなバイクで通っていた。とはいえ、温厚で物静かな印象の彼とはさして親しかったわけではなく、どちらかというと賑やかな性格の他の検事の部屋に「遊び」に行くことが多かった。

 甲斐氏は捜査畑の現場検事というよりは、いわゆる「赤レンガ組」と呼ばれる法務官僚としての任官が長かった。青森地検検事正や審議官、東京地検検事正などに昇格した人事を報じる新聞記事をたまに見て「色白の好人物だったけど、ずいぶんと出世したんだなあ」と懐かしい思いで見ていたが、いつの間にか検察組織のトップにまで上り詰めていた。

「抗告断念」の報を聞いたひで子さんが喜びの電話応対で「検察は偉いよ、本当に偉かったよ」と語った通り、容易な判断だったはずはない。歴史的な司法決裁について最終的な英断を下した検事総長と、浅いとはいえ若い頃に少し縁があったことも不思議だった。

 冤罪取材が多いこともあり、日頃、検察官を辛辣に批判してきた筆者としては、今回、少し複雑な心境ではある。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

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