【袴田事件と世界一の姉】キャバレー時代の知人が述懐「警察は事件直後に巖さんを犯人と決めつけていた」

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警察が作り上げた悪印象の人物像

 巖さんの人物像について、静岡県警の捜査報告書(1968年2月印刷)の「袴田巖の経歴・家庭状況」の項目から少し引用する。

《5 昭和37年頃、眼と足の故障から、ボクサーを続けることができなくなり、不二拳をやめて引退し、清水市内に帰り串田の紹介で同市内のキャバレー太陽のボーイとなり、レイ子もそこのホステスとなって共稼ぎしていたが、半年くらいでやめ、(中略)富士市内三枝酒店に行き昼間は店の手伝いをし、夜はバー「ボン」でレイ子とともに働いていたが長続きせず間もなくもとのキャバレー「太陽」に戻り以前のようにボーイとして働くようになった。》

《6 昭和38年11月頃から「太陽」に出入りしていた酒屋西宮日出男がスポンサーとなって、清水市仲町に「暖流」というバーを開業し袴田が支配人、レイ子がマダムとなり、ホステス2人を雇って営業を始めたが、袴田が競輪、マージャンに凝って浪費したため経営不振となり、昭和40年1月ころ、西宮の紹介で、清水市横砂651王こがね味噌合資会社橋本藤作商店に工員として勤め妻レイ子は再び西宮の世話で、清水市旭町で「萬花」というバーを経営したが3ヶ月位で潰れてしまった。
 袴田は「萬花」が潰れてからは同会社第一工場の中にある寮に寄宿し、味噌の運搬、及び味噌ずりの仕事をするようになり、現在に至っている。》

《8 袴田巖の家族関係
(1)袴田は昭和38年5月キャバレー「太陽」に勤務しているころ赤石レイ子と正式結婚の手続きをとり昭和39年10月15日長男 正 が生まれた。「暖流」「萬花」等のバーをやっていたころは家族三人で暮らしていたが「萬花」が潰れたころ妻レイ子に嫉妬から乱暴するようになったためレイ子は情夫とともに家出してしまった。》

※筆者注:妻と息子は仮名。不二拳とは神奈川県川崎市にあった不二拳闘ボクシングクラブ。串田とは清水市にあった串田ジムの主催者・串田昇氏のこと。警察の報告書は意図的に袴田巖さんをギャンブル好きの怠け者に仕立てているが、麻雀はルールを知っている程度、競輪など嗜んでもいない。妻のレイ子には早々と「男」がいたようである。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

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