【袴田事件と世界一の姉】キャバレー時代の知人が述懐「警察は事件直後に巖さんを犯人と決めつけていた」

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「おなかちゃんに殺人などできるはずがない」

 2月22日、筆者は「袴田巖さんを救援する清水・静岡市民の会」の山崎俊樹事務局長の案内で当時の巖さんを知る人物を尋ねた。

 渡邉昭子さん(86)は、JR清水駅から車で15分ほどのアパートに住む。夫の蓮昭さんは2020年11月に93歳で他界した。巖さんがキャバレー「太陽」のボーイだった頃、北海道佐呂間町出身の蓮昭さんはバンドマンとして「太陽」の舞台でピアノやアコーディオン、ドラムを演奏していた。巖さんはこの夫婦と家族づきあいをする親しい間柄だった。

 昭子さんはアルバムを用意して待ってくれていた。ところが、巖さんが写っている写真はごくわずかで、小さかったりぼやけたものばかりだ。「いい写真は全部警察が持って行ってしまって、返してくれないままなんです」と昭子さんは残念がる。

「よく事件現場近くの袖師海岸(今は埋め立てられている)に海水浴に行きました。巖さんは私たちの子供をものすごく可愛がってくれました。独立して開いた『暖流』を辞めた後、こがね味噌に勤めてからも付き合いは続いていて、あの事件の1週間前にも巖さんは味噌を持ってきてくれましたよ」と振り返る。

 事件発生で清水市民は恐怖に慄き、大騒ぎになった。

「7月1日の夕方に警察が3人くらい来ました。そして巖さんのことをあれこれ夫に訊いたのです。夫は『袴田君がそんなことをするはずがない』と強く訴えましたが、刑事はタバコをふかしながら『あいつに間違いないんだ』と言って全く聞く耳も持ちませんでしたよ。夫は『おなかちゃんが殺人なんかできるはずないんだ』と憤慨していました。巖さんはボクシングをやめてからポコンとおなかが出ていたので、そんなあだ名で呼んでたんですよ」と話す。

 昭子さんは、清水署の警察がやって来たのは事件翌日の7月1日と記憶していた。しかし、スマホで1966年のカレンダーを調べていた山崎さんは、「夕方だと、平日でご主人は『太陽』に出勤しているはず。警察が来たのは7月1日の金曜日ではなく、2日の土曜か3日の日曜ではないですか」と言った。ちょっと天井を見上げて思い出すようにしていた昭子さんは「とにかくその週にすぐきましたよ」と振り返った。事件は6月30日の木曜日なので、いずれにせよ事件から数日後には捜査陣が巖さんを犯人と決めつけていたことを物語る。事実、毎日新聞は7月4日の夕刊で <従業員「H」浮かぶ 清水の殺人放火 血ぞめのシャツを発見>とのタイトルで<【清水】六月三十日未明、静岡県清水市横砂、こがね味噌製造会社専務、橋本藤雄さん(四一)方で藤雄さんら家族四人が殺された強盗殺人放火事件清水署特別捜査本部は四日、同社製造係勤務、H(三〇)を有力容疑者とみて証拠固めをしている。(中略)Hは同市内に妻と子供が住んでいるが、折り合いが悪く現在、協議離婚の話が持ち上がっている。また女性関係が多く、給料の前借りもしばしばだった。しかし受けはよく非常にかわいがられており毎日、同家に食事にいき、藤雄さん方の事情にもくわしかった>などと報道した。

 蓮昭さんは巖さんの無実を信じ続け、支援集会などにも駆け付けていた。山崎さんは「清水での支援集会の時も車いすで姿を見せていました」と話す。昭子さんは「テレビで巖さんがニュースになると、『おい、かあちゃん、袴田さんが出てるよ』と大声で私を呼びました。釈放された巖さんと主人は対面しましたが、巖さんは主人ことが分からなかったようです。主人も、その時は既に弱っていて声が出せなくなっていましたね」と残念そうに振り返った。

 そんな渡邉夫妻についてひで子さんは「ご夫妻を昔から知るわけではなく、巖が拘置所から出てきた後の支援集会にご夫婦が来てくださった時に初めてお会いしました。その時は巖もおかしくなっていたので、蓮昭さんのことも昭子さんのことも思い出せない様子でした。蓮昭さんは車いす姿でかなり弱っておられました。せっかく集会にまで来ていただいたのにとても残念でした」と振り返った。

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