【袴田事件と世界一の姉】キャバレー時代の知人が述懐「警察は事件直後に巖さんを犯人と決めつけていた」

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寡黙だった巖さんへの誤解

 大阪万博に沸いた1970(昭和45)年に大流行したテレビCMに「男は黙ってサッポロビール」というのがある。当時はまだビールを飲む女性も少なかった。音楽だけが流れる中、銀幕の大スター、三船敏郎がグラスのビールを飲み干し、最後にこの台詞のナレーションが入るだけのシンプルな内容だ(いくつかのバージョンがある)。後年、サッポロビール入社の面接試験で、何を尋ねても沈黙した学生が退室際にこの台詞を吐いて採用されたという逸話まで流布したが、これは「フェイクニュース」らしい。いずれにせよ、「男性は無口なのが男らしくていい」との観念が強かった時代の話。このCMを見たとしても既に死刑の一審判決(1968年9月)が下り、拘置所内だったであろう巖さんは、極めて無口で寡黙な男だった(現在も同様である)。寡黙は「男らしい」反面、「あの人、何考えてるのかわからないね」と思われてしまう側面もある。

 1966年6月30日未明に清水市(現・静岡市清水区)で一家4人が殺された大事件。清水市には妻子とともに殺された橋本藤雄専務の親戚や知人らが多く、周辺の空気は家族4人を失った長女の昌子さん(2014年3月に死去)や橋本専務の父・藤作さんへの同情が中心だった。

 同年7月6日付の静岡新聞夕刊には《藤雄さんの父藤作さん(六七)がリューマチをおして清水厚生病院から許可をもらって通っている姿もいたましい。(中略)肉親や弟妹を失った長女の昌子さん(一九)のショックは大きく痛ましいばかり。(中略)近所の人たちも口々に「早く犯人が捕まってくれればよいが…。昌子さんもやつれてかわいそうだ」と昌子さんへの同情が集まっている》などの記事が出ている。実は、こがね味噌の社員も橋本専務と縁戚関係にある人が多かったという。

 当時は同じ静岡県でも浜松市と清水市はかなり遠いという感覚があり、浜松出身の巖さんは「よそ者」でもあり、清水市は「被害者たちの町」でもあった。巖さんはプロボクサーを引退後にキャバレーのボーイをやり、独立してバーを経営したが失敗。一家4人殺害放火事件は、こがね味噌に就職して1年ほどで起きた事件だった。消火現場などで巖さんの姿を見たこがね味噌の複数の従業員らは、なぜ「袴田を見た」と警察に証言し続けてくれなかったのか。

「真面目に働く、いいやつだ」と橋本専務には可愛がられていた巖さんだが、10代の頃から勤める他の従業員らと、30歳近くなってから来た男にはどうしてもギャップがあったのだろう。警察やマスコミが早い段階から巖さんを犯人扱いするうち、「ちょっと何考えてるかわからない感じだったけど、怖い男だったのかもしれない」と、寡黙な性格が災いして誤解された可能性は高い。悪気や差別意識はなくとも、報道を信じるしかない従業員らは次第に「かかわらない方がいい」という考えに収斂し、目撃談を積極的には語らなくなってしまったのだろうか。前回紹介したように、証言者への検察や警察の「圧力」「脅し」があった可能性も十分考えられる。

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