【袴田事件と世界一の姉】キャバレー時代の知人が述懐「警察は事件直後に巖さんを犯人と決めつけていた」

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当時のまま残っている「暖流」の建物

 取材日は寒かったが快晴で、山崎さんの運転で若き日の巖さんの足跡を辿った。清水市内を流れる巴川のほとりにある製紙工場「巴川製紙」の対岸の柳橋のたもとに、昭和を思わせる風情ある飲み屋の一角があった。1963年の冬頃、巖さんはここでバー「暖流」を開店し、新婚の妻・レイ子さんをマダムにして切り盛りしていたのだ。

「『太陽』の建物はなくなりましたが、『暖流』の建物は昔のままなんですよ。巖さんはここの2階に寝泊まりしていたはずです」と語る山崎さん。巴川の河口を見やりながら「橋本専務はモーターボートを所有していて、休日にはよく巴川の河口や海でボートで釣りをしていました。巖さんは、専務に頼まれて河口に係留していたボートの手入れや掃除をやっていたのです。放火に使われたというガソリンの一種の混合油とは、このボートのもので、ツーサイクルエンジン用の油でした」と話していた。

 一方、巖さんが「暖流」を始める前にボーイをしていたキャバレー「太陽」は、今は駐車場になっていて跡形もなかった。跡地を訪ねると、当時から「太陽」のすぐ近くに住む小松兼吉さん(86)がたまたま庭に出ていた。

「大学を出て会社員になった昭和35年頃、『太陽』によく通ったよ。コントみたいのも舞台でよくやっていたなあ。楠トシエも出てたなあ」などと話していた。「太陽」は有名キャバレーで、俳優の勝新太郎や歌手で声優の楠トシエ、先ごろ亡くなった漫才師の内海桂子などの著名芸能人もよく舞台に上がっていた。小松さんは「袴田巖さんを直接知っていたわけではないが、事件が起きた頃、袴田さんが奥さんとこじれていたようなことが言われていたのを覚えている。この辺の人間としては犯人なんだと思っていたけどね。ほかに怪しい人がいるという話も出なかったし。犯人だったのかどうかは私にはわからないけど」などと話してくれた。

 楠トシエとは実に懐かしい名を聞いた。子供の頃、筆者が夢中で見たNHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」のサンデー先生の声だ。現在は94歳で元気だそうだ。

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