東京五輪は既に「ガス抜き」として機能 開催の是非を巡って争うこと自体の効能(古市憲寿)

古市憲寿 誰の味方でもありません 国内 社会 週刊新潮 2021年6月10日号掲載

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 オリンピックは戦争の代わりだ、という説がある。

 人間は戦わずにはいられない。だからガス抜きが必要である。国家同士が威信を懸けて戦うオリンピックのおかげで、戦争が回避されている、といった具合だ。

 確かにオリンピックと近代戦争は、共に国威発揚がセットになったナショナリズムの「祭典」だ。名も知らない兵士の戦果を喜べるように、友人でもない選手の活躍に国民は拍手を送る。

 ただしオリンピックでは、膨大な人命が犠牲になることもないし、都市も破壊されないし、経済的にも総力戦よりは安上がりだろう。

 人間にとって「集団で戦う」ことが避けられないなら、オリンピックは合理的なイベントにも思える。

 ただし反論は簡単に思いつく。1896年から近代オリンピックが開始されているにもかかわらず、その後に2回も世界大戦が発生している。しかも聖火リレーを始めたナチスドイツには、オリンピックを有効活用される始末だった。

 アフガニスタンやシリアなど、今でも世界各地で武力紛争が続いているが、それはオリンピックが戦争の代わりにはなり得ないことの証明にも思える。

 しかし歴史は対照実験が不可能だ。「オリンピックがなかった場合の近現代史」は想像で語るしかない。もっと戦争の数が多かったかも知れないし、第3次世界大戦が発生していた可能性もある。

 現代は「長い平和」の時代とも呼ばれる。人類史的に考えれば、第2次世界大戦終結以降、戦死者の数は激減している。テロや武力紛争など暴力自体が根絶されたわけではないが、再び悲惨な総力戦が発生する可能性は低そうだ。

 よく「長い平和」の理由には、先進国の若者の減少と高齢化、世界の相互依存度の高まり、核抑止力の有効性、世界大戦の凄惨な記憶などが挙げられる。

 比較すると、オリンピックの果たした役割は小さく思えてしまう。そもそも世界中がオリンピックに熱狂するわけではない。開催期間中も一般市民は無関心という国は多いし、コロナ以前から招致を断念する都市が相次いでいた。

 仮にオリンピックが廃止されても、1896年とは比較にならないくらい、世界中が交流する時代になった。ワールドカップもあるし、ポケモンワールドチャンピオンシップスもある。上に挙げた「長い平和」の理由は、どれもオリンピックの開催を必要としない理由としても通用する。

 それでも興味深いのは、日本ではオリンピック開催の是非が、代理戦争のようになっていること。かつてプロイセンの参謀総長は「戦争へ諸国を導くのは消極的な政府の願望ではなく、好戦的になった人民の圧力である」と述べていた(アザー・ガット『文明と戦争』)。「戦争へ諸国」を「オリンピック中止へ日本」と置き換えても意味が通じそうだ。

 開催されてもされなくても、東京オリンピックは既に、何らかのガス抜きとしては立派に役割を果たしているようである。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。