勝新太郎vs三船敏郎… 公開から50年「座頭市と用心棒」の煮え切らなさ

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勝新のマル、三船の四角

 市の殺人は欲望というよりも本能によるところが大きい。斬られてしまえば、それまでよ、だから生きようとする。ただそれだけだ。用心棒は人を斬ることで依頼人の利益に寄与する。報酬を前提とした殺人だから、斬るしかない。来る者を斬る市とは違い、自ら斬りにいかなければならない。それが経済活動だからだ。

「座頭市と用心棒」の煮え切らなさは、その二人の依り所があやふやにしか描かれていないからだ。市と用心棒はなぜ対決しなければならないか、話が進むうちにその理由が浮遊していく。

 ひとつには勝新と三船の間合いが中途半端になっているからだが、その理由は、三船が勝新の呼吸をしばしば無視してしまうからだ。相対して、市は円を描くように動いていくが、用心棒はあくまでも直線で太刀を振るっていく。市は人を撫でるようにも巻き込むようにも斬るが、用心棒は薪を割るようにしか人を斬らない。

 三船の動きはいつも角ばっている。勝新はマルにも四角にもなるが、三船は太い線でできた四角から変わることがない。歩き方にその違いはよく現れている。三船の足は地をほとんど摺(す)らない。そのような殺陣を必要としない剣だ、ともいえる。それは、負けることを考えたことがない剣、ともいえないか。太刀を抜いた瞬間が仕事開始の合図である用心棒で、抜いた瞬間に人あるいは何物かを斬っていなければ死ぬかもしれない市との差ともいえる。

 交わっているようで踏み込みきれずに、お互いの間合いが詰まる前に話が終わってしまったように思う。せっかくの岸田森の怪演も、三船は受け流している。悪はあくまで悪でなければならない、と岸田森演ずる九頭竜はきちんと伝えている。しかし用心棒はその重要性を無視している。この映画では市は脇から攻めるしかない、と勝新は覚悟していた節がある。市のスタンド・プレーがほとんどないのはそのせいだ。精彩を欠いて見えても仕方がない、と勝プロダクションの“社長”は息をひそめる時間を多くとった。その分三船の呼吸を大きく見せることを望んだのだ。だから用心棒はたくさんの人を斬る。市は呼吸が浅いので、申しわけ程度しか斬れない。その分九頭竜の悪を濃くにじませたい、と考えていたかもしれない。

 岸田森は勝新の様子からそれを悟ったに違いない。三船を食っているところもある。しかし監督の岡本喜八は、勝新の息の少なさを感じ取っていた、とは考えにくい。むしろそんなこと知るか、とでもいうように”物語作り”のほうに手を焼いていたのではなかろうか。そのせいで観客が消化不良になっても仕方がない。映画界の政治とはこういうものだ、というかのように、なんとなく辻褄は合っているようにこの作品は見せている。

 勝新がこういう”政治の世界”を重荷に感じていく契機が、用心棒との対決だったのではないか。出来上がった「座頭市と用心棒」を見て勝新はこういった、かもしれない。

「座頭市はこういうこと、二度はやらないよ」

湯浅学(ゆあさまなぶ)
1957年神奈川県横浜生まれ。音楽評論家。「幻の名盤解放同盟」常務。バンド「湯浅湾」リーダー。著書に『音楽が降りてくる』『ボブ・ディラン――ロックの精霊』『大音海』『音山』『嗚呼、名盤』、監修に「スウィート・スウィートバック」など。

編集協力:平嶋洋一(キネマ旬報)/週刊新潮WEB取材班編集

2020年10月21日掲載

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