勝新太郎が舞台でヒップホップ 「おまえたちの新しい川に乗せてくれよ」と言った意味

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湯浅学「役者の唄」――勝新太郎(2)

 音楽評論家の湯浅学氏が迫る勝新太郎の「唄」。1993年、勝のアルバム「ザ・マン・ネバー・ギブ・アップ」(82年発表)のCD化を打診するため勝プロモーションを尋ねた湯浅氏に、勝本人は「録音し直したい」と告げる。

二元論からの解放

 表と裏、闇と光、それは対立するものではなく一体になっているものだ、と勝新太郎は感じていた。

 表通りには必ず裏通りがあり、何かに光を当てれば必ずどこかに影ができる。

 当たり前ではないか、という前に、そのことを世界像に照らし合わせてみる。勝新太郎の新しい歩みはそこから始まった。ピカロに転じることで、善と悪を二元論から解放した。盲人を演じることで開眼した。悪事によって正義のあやうさを知った。「不知火検校」で勝新太郎に対する世間の見る目が変わった、とは言えないが、勝本人の世の中を見る目が変わった。「不知火検校」はその後34年の時を経て1994年に、勝自身の演出/主演で舞台化された。その舞台では音楽はEDISON(エジソン、※注1)が担当したが、勝の希望でヒップホップが取り入れられた。

 勝は新しい音楽によく耳を傾けていた。息子の雄大からの教示もあった、という。舞台版「不知火検校」ではヒップホップ的なステップも導入されていた。この舞台の後、DJクラッシュをはじめとするクラブ系ミュージシャンのトラックと勝の歌をコラボレーションさせる、という企画を持ちかけられていたが、それは実現しなかった。

 そういえば「不知火検校」の舞台を観に行き、終演後勝の楽屋を訪ねたとき、開口一番「どうだった? ヒップホップやってみたんだが」と聞かれたことがあった。そのとき俺は音量がひかえめでせっかくの試みが伝わりにくくなっていると思ったので「音量はもう少し上げたほうがいいと思います」と感想を述べた。勝は「そうか」と頷いて「明日から直す」といった。確かに翌日から音量はぐっと上げられていた。

 この舞台公演は毎日のように改訂というか手直しが成され公演時間は日ごとに延びていった。当初3時間ほどだったが、楽日あたりでは4時間近かった。

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