テレビに出る時に緊張しない理由(古市憲寿)

  • ブックマーク

Advertisement

 テレビ番組に出る時、緊張しないのかと聞かれることがある。結論からいえば、しない。なぜならそれが、僕にとって一世一代の勝負の場などではないからだ。

 もしある番組に出ることで人生がまるで変わるならば、さすがに身構えたりすると思う。でも、そんなことはまずない。

 素晴らしいことを言ったからといって、大富豪が養子に迎えてくれることもなければ、まずい発言をしたからといって、命を狙われることもない(もしかしたら後者はあり得るのかも)。

 実際はせいぜいネットで褒められたり、炎上するくらいで、それは長期的な人生にはほとんど影響を及ぼさない。

 緊張とは、自分自身に対する過大な期待から生じることが多い。できるはずとか、うまくやろうという思いが、緊張を生む。そして失敗した場合は、下手すると自己嫌悪することもある。

 だけど、僕にとってのテレビとは、もともと専門外。こんな滑舌が悪く早口の人間がテレビに出ていること自体、本当はおかしいと思っている。だから、そもそもテレビで活躍してやろうなんて思っていない。

 テレビだけで勝負するということは、松本人志さんたちと同じ土俵で戦うということだ。そんなことは無理に決まっている。

 最近は『平成くん、さようなら』という小説のプロモーションもあり、多少多めにテレビに出ていた。だから認知度は上がったかもしれない。だけど、ある日テレビに出るのをやめると、世間はあっけなく僕のことを忘れていくのだろう。

「あの人は今…」という番組があったが、ほとんどの人は「あの人」として顧みられることもなく、表舞台から消えていく。

 テレビに出るとは、所詮その程度のことだ。自分で言うのもなんだが、最近の僕には多少の需要があるのだろう。「人気」と言い換えてもいい。ただ、人気ほどあやふやで、なんの裏付けもない指標も珍しい。だから、人気のあるなしに一喜一憂しても仕方がない。

 結局のところ、長く活躍できる人に共通しているのは、専門性があることだと思う。秋元康さんなら「作詞家」だし、林真理子さんなら「小説家」。誰がなんと言おうと、秋元さんが「川の流れのように」を作詞した事実はゆらがない。林さんもいくらエッセイが炎上しようとも、小説で数々の賞を獲得してきた歴史は消えない。

 翻ってみて、僕自身にはまだ代表作と呼べる作品がないことに気が付く。そこそこ話題になった本はあるが、「そこそこ」止まり。10年後に覚えている人がどれだけいるかは心許ない。

 じゃあどうしようという時にできるのは、結局続けることくらいだ。この連載をまとめた新書が4月に出版される予定なのだが、自分で読み返しても、たまにはいいことが書いてあった。

 このように自分に甘い人間は成長しないとも言われるが、緊張や萎縮をして、何も作品を生み出さないよりは遥かにいいはずだ。頑張らずに代表作書きたいなあ。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2019年2月14日号掲載

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。