ハクスキノエへ行ってきました(古市憲寿)

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「今度、ハクスキノエへ行くんです」。そう言うと、決まって誰からもきょとんとされた。「白村江」とは、古代日本(倭国(わこく))にとって最大の対外戦争の起こった場所。660年に滅んだ百済再興を手助けするため、663年に倭国がはるばる朝鮮半島まで出かけ、唐・新羅連合軍と戦ったのだ。いわば集団的自衛権を行使した参戦であった(しかし結果は大負け)。

 日本史の教科書には必ず登場するはずなのだが、関ヶ原の戦いや太平洋戦争ほどの知名度はない。1300年以上前のことだから仕方ないが、この白村江の敗戦は、天皇を中心とする強い国家と、「日本」という国号を生む契機となった。それくらい古代日本にとって重要な戦いだったのだ。

 現在、白村江という地名は残っていない。戦いが起こった場所には諸説あるが、有力なのは韓国南部の錦江河口とその近海だ。地図アプリを頼りに、ソウルからKTX(高速鉄道)とローカル線、路線バスを乗り継いで錦江河口にある長項へ何とかたどり着いた。

 見たところ、非常にのどかな漁村だった。干潟の広がる穏やかな河口に、1355年前の戦いを想起させるものは何もない。ようやく見つけたのは朝鮮戦争で命を落とした海兵隊の慰霊碑だけ。長項も戦地の一つになったのだという。

「韓国」というと、やたら「恨(ハン)の文化」を強調したがる人がいる。しかし少なくとも白村江の戦いに関しては、「恨」は完全に消えているといっていい。

 正確にいえば、当時の朝鮮半島は高句麗、新羅、百済が争う三国時代の末期だった。リップサービスか、世界遺産である百済の王城跡地、王宮里遺跡展示館のおばさんが、白村江の戦いに関してこんなことを言っていた。

「日本が私たちのために戦ってくれたんですよ」

 確かに当時の倭国や百済の末裔が、現在日本や韓国に住んでいる確率は高いだろう。しかし古代国家と現在の両国では国境も違うし、他国人との混血も繰り返されているはずだ。歴史は都合良くその場によって改変されるものなのだろう。

 それは現代史でも同じだ。よく台湾は親日なのに韓国は反日だと言われる。これは「恨の文化」というよりも、戦後の国際情勢を考えたほうがいい。台湾は中国本土と距離を置くために日本と近づく理由があり、親日にならざるを得なかった。

 実は韓国も1980年代までは、反日運動が盛り上がりそうになると経済界が止めに入っていた。経済的に重要なパートナーである日本に対して、正面から歴史問題を提起できなかったのだ。韓国で慰安婦問題などが大々的に論じられるようになるのは、中国との貿易額が増え、日本の存在感が小さくなってからのことだ。

 ところで日本で「白村江」と聞いて反応してくれたのは、小説家の玉岡かおるさんだけ。『天平の女帝 孝謙称徳』などの著書があり古代史に精通しているのだ。文壇バー「ザボン」40周年パーティーで、中瀬ゆかりが紹介してくれた。中瀬さんもたまにはいい仕事をするものである。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

週刊新潮 2018年6月21日号掲載

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