【豊臣兄弟!】家康に嫁ぐために夫と引き裂かれた「あさひ」…実は「4年前に離婚」という別の説

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夫婦が引き裂かれた悲劇として描かれるが

 嫁ぎ先を世話しようとする羽柴秀吉(池松壮亮)に向かって、茶々(井上和)は「誰とも夫婦になる気はありませぬ」と言い張る。そこに「殿下、お呼びでござりますか?」といって副田吉成(前原瑞樹)が、妻で秀吉と秀長(仲野太賀)の妹である「あさひ」(倉沢杏菜)と連れ立って現れた。「おぬしらで夫婦がどんなにいいもんか、茶々に教えてやってちょ」と秀吉はいうのだ。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第39回「茶々の本心」(10月11日放送)。

「あさひ」は「なにそれ? そのために呼んだの?」と呆れ顔で、その後、夫婦はこの場で多少の言い争いをしつつも、徐々に仲睦まじいところを見せた。「あさひ」が「初めのころはあまり好いておらんかったわ」というと、吉成は「はあ?」と声を荒げるが、「でも、少しずついいとこもわかってきて、ダメなところも、まあ、いいか、と思えるようになって」と、「あさひ」が照れながら話すと、吉成もご満悦の様子だった。

 ところが、第40回「あさひの輿入れ」(10月18日放送)で、この夫婦の運命は一挙に暗転する。徳川家康(松下洸平)との和睦交渉を織田信長の次男、信雄(山脇辰哉)が務めたが、家康は和睦を受け入れる条件として、秀吉の親族を妻にほしいといってきた。すると該当する女性は「あさひ」しかいない。

 秀吉みずからが「あさひ」と副田吉成の説得に当たったが、吉成は首を縦に振らない。秀吉は逆らうなら処罰する旨を告げたが、吉成は「あさひ」を連れての逃亡を画策。だが、決行したところを秀長らに見つかって、「あさひ」は観念。吉成と離縁して天正14年(1586)5月、家康のもとに嫁ぐ、という展開である。

 仲睦まじく暮らしていた夫と強引に引き離され、見ず知らずの武将のもとへ送られる「あさひ」。愛妻を強引に奪われた副田吉成。戦国時代の、人権も人間感情も一切考慮されない理不尽さを痛感させられる場面に思える。だが、「あさひ」と吉成の夫妻は、この時点ではとっくに離婚していたというのが、いまでは常識なのである。

夫の失態で離縁させられていた「あさひ」

「あさひ」は死去した年齢から逆算すると、秀吉と秀長の母、いわゆる大政所が27歳だった天文12年(1543)に産んだ娘で、秀吉の六つ、秀長の三つ年少だったと考えられる。彼女が結婚した時期ははっきりとはわからないが、兄の秀吉が織田信長に仕官し、一定の立場を得てからと思われる。その相手が、『豊臣兄弟!』でも彼女の夫として描かれている副田甚兵衛尉吉成だった。

 この吉成の出身地は尾張(愛知県西部)の烏森(名古屋市中村区)、すなわち秀吉らの生誕地の近所だったようだ。「あさひ」と結婚後、秀吉に家臣として仕え、さらには秀長の与力(一時的に預けられた家臣など)となっていたようだ。

 一般に知られているストーリーは、『豊臣兄弟!』でも描写される以下のようなのものだろう。秀吉に臣従することに消極的な徳川家康を懐柔するためには、秀吉の親族を家康に嫁がせ、縁戚関係を築いたほうがいい、と考えた秀吉が、強引に「あさひ」と副田吉成の夫婦関係を切り裂き、「あさひ」を家康のもとへ嫁がせた――。

 ところが、江戸時代の儒学者で兵学者の山鹿素行が記した『武家事紀』などに、副田吉成についての記述があり、書かれた内容は上述のものと異なる。これは同時代の史料ではないものの、それなりに信用されると考えられている。

 それによると副田吉成は、秀長が信長のもとで但馬(兵庫県北部)を攻略し、竹田城(兵庫県朝来市)に本拠を置いた時期に、秀長の与力として、その西北の多伊城(兵庫県新温泉町)を預けられていたという。さすがに妹の夫であり、かなり重要なポジションをあたえられていたことになる。ところが、天正10年(1582)6月、本能寺の変が起きたため、吉成が播磨(兵庫県南西部)に移動すると、その間に一揆が発生し、留守にしていた多伊城は奪われてしまった。

 その後、城は奪還されたものの、秀吉は失態を犯した吉成に激怒して、吉成を妹の「あさひ」と離縁させたというのだ。

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