【豊臣兄弟!】家康に嫁ぐために夫と引き裂かれた「あさひ」…実は「4年前に離婚」という別の説
正室不在の家康のもとに独身の「あさひ」が輿入れした
そうであるなら、その時期は本能寺の変の少しのち、いずれにしても天正10年(1582)のことで、「あさひ」が家康に嫁ぐ4年前ということになる。家康は天正7年(1579)、正室の築山殿を殺させたのち、正室が不在だった。一方、「あさひ」も副田吉成とは離縁していたので、天正14年(1586)5月14日、「あさひ」が家康に輿入れして浜松に着いたときには、正室不在の家康のもとに、すでに離縁していた「あさひ」が嫁いだことになる。
『豊臣兄弟!』では、家康と和睦するための究極の手段として、「あさひ」を離縁させるように描写されるようだ。しかし、実際にはこの婚姻自体は、取り立てて異常な状況だったりいびつな形態だったりしたとはいえない。この時代、和睦に際して縁戚関係を結ぶのは、定石中の定石であり、家康ほどの大物なら、相手が秀吉の肉親でなければバランスが取れず、ちょうど独身であった「あさひ」が家康に嫁いだのは、きわめて自然である。
秀吉の冷酷さが際立つとしたら、むしろ、副田吉成が城を一揆に奪われたことに激怒し、実妹と義弟を離婚させてしまったことのほうだろう。『豊臣兄弟!』で描かれるように、家康を臣従させるためほかに手がなく、「あさひ」に離縁を強いたというなら、当時の選択としては合理的で筋が通っている。だが、戦場での失態を報告され、怒りにまかせて妹夫婦を離縁させてしまったのは、感情を制御できない暴君の仕業といわれても仕方あるまい。
ところで、かつては家康への「あさひ」の輿入れは、秀吉の側からの強引な押し付けのようにいわれていた。だが、実態は逆である。秀吉と和睦し、いずれ臣従するにあたって、少しでも自分の立場を有利にするには、秀吉と縁戚関係を結ぶにしくはない。そう考えた家康が、秀吉側に要求して実現したことなのである。
家康に高い地位がもたらされたのは「あさひ」のおかげ
もっとも、家康より1歳若い「あさひ」はこのとき44歳で、家康も「あさひ」とのあいだに子をもうけようとは考えていなかったに違いない。だが、こうして家康が秀吉と縁戚関係になったことの影響は大きかった。
「あさひ」が輿入れしたのち、同年10月に家康は大坂城で秀吉に臣従の意志を示し、その直後、従三位権中納言に任じられ、翌天正15年(1587)には秀長と同じ従二位権大納言へと昇進。以後、秀長が死ぬまで秀長と同格を維持し続けた。それは「あさひ」を娶った家康が、秀吉から一門と認識されていたからだろう。同じ理由で、家康の嫡男の秀忠も、天正20年(1592)にわずか数え14歳で従三位権大納言になるなど、「一門」としてほかの大名の子息より圧倒的に高い地位を維持した。
「あさひ」自身は、家康に嫁いで4年も経たない天正18年(1590)1月14日、48歳で死去している。実母の大政所の看病で大坂に戻ったのち、聚楽第(京都市上京区)で病に倒れた(病名は不明)。いずれにせよ、「あさひ」が嫁いだおかげで、羽柴政権内における家康の地位が非常に高まったことと、それがのちに政権を奪取する礎になったことはまちがいない。
秀吉にとって「あさひ」は、家康に輿入れして羽柴政権を救った救世主だが、家康から見たら、徳川の世につなげてくれた救世主ということもできるだろう。秀吉の実妹としては皮肉な立場にあったともいえよう。
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