【豊臣兄弟!】寧々と茶々は「恋敵」ではなかった? “女狂い”秀吉を支えた「二人の正妻」の実像

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茶々は寧々に次ぐ事実上の正妻だった

 そんななかで、茶々は秀吉からどんな扱いを受けたのか。福田千鶴氏は『淀殿』(ミネルヴァ書房)に、次のように書く。〈天正十二年の段階ですでに三姉妹の進路は決められていたのではないだろうか。すなわち、茶々は秀吉の妻、初は龍子の兄高次の妻、江はいとこで尾張の有力国人であった佐治一成の妻、という進路である〉。

 少し補足すると、天正12年(1584)とは秀吉が小牧・長久手の戦いで徳川家康や織田信雄と争っていた時期である。また、〈龍子〉とは茶々たち姉妹の従姉で、秀吉の別妻になっていた「松の丸殿」のこと。その兄の〈高次〉とは京極高次を指す。

 茶々ら三姉妹は、柴田勝家のもとから救出された時点で、身寄りがないため、だれかと結婚しないかぎり生きていけない境遇にあった。そこで、早い時期に秀吉は茶々に結婚を申し入れ、三姉妹の長女である茶々は、それを受け入れる条件として、妹二人の結婚も取り計ってほしいと要求した――。そう解釈するのは合理的で、実際、そのような見方をする研究者は多い。

 ところで多くの人は、茶々が秀吉の側室、あるいは愛妾だと思っているかもしれない。だが、大坂城に囲われていた300人とは明らかにあつかいが異なり、前出の福田氏は、寧々に次ぐ事実上の正妻だったとみる。事実、太田牛一は『太閤さま軍記のうち』に茶々を正妻の敬称である「北の御方」と記し、秀吉自身が茶々を、公卿などの正妻の敬称「簾中」と呼んだとの記録もある。

 その立場は妊娠を機にまた高まった。天正16年(1588)10月、鶴松の妊娠がわかると秀吉は、茶々を聚楽第(京都市上京区)から茨木城(大阪府茨木市)へ移動させ、さらに完成した淀城(京都市伏見区)へ移して出産させた。鶴松は2歳で早世したが、文禄2年(1593)8月には拾(のちの秀頼)が誕生。大坂城で茶々は、寧々と並んで「両御台様」と呼ばれ(『佐竹古文書』)、秀吉の死後も豊臣家に君臨することになった。

寧々と茶々は対立関係よりも協調関係?

 整理すれば、秀吉は若いころから「女狂い」で、天下一統が近づいてからは大坂城に300人もの妾を囲っていたが、そもそも正妻の寧々はその女性たちに嫉妬する以前に、彼女たちを管理する役割を担っていた。一方、秀吉にはこうした妾以外に別妻がいて、市の長女である茶々は秀吉の申し入れで別妻になった。その後、秀吉の子を妊娠するに至って、その立場は寧々と並ぶ正妻にまで上がっていった。

 それでも寧々すなわち北政所は、秀吉に蔑ろにされたとはいえない。天正16年(1588)4月、後陽成天皇の行幸を聚楽第に迎えたのち、行幸を見事に仕切った功績によって、従一位准三后というとんでもない地位に叙せられた。なにしろ准三后は、太皇太后、皇太后、皇后の三后に次ぐ地位で、たとえ秀吉でも、蔑ろにすることは許されない地位だった。しかも北政所には実力がともなっていたので、たとえば小田原征伐のときも、大坂における留守居役の統括者を務めたようだ。

 つまり、茶々すなわち淀殿とは、現代の感覚からは理解が困難かもしれないが、住みわけができていて、寧々は茶々と協調し、また連携していた、という見方が近年では有力になっている。だが、それとは別に、秀吉の「女狂い」は二人の正妻の関係など超越し、ずっと続いていたものと思われる。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動を行うほか、歴史的な視点を応用し、経済から文化まで現代のさまざまな社会状況にも言及。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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