戦争反対の立場ながら「真珠湾攻撃」を指揮…「山本五十六」長男・義正氏が昭和の終わりに明かしていた山本家の“父亡き戦中戦後”

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明日食べるものもないという有様

 が、その遺児たちにしても、戦後という時代は必ずしも生き易くはなかったようだ。そのあたり、義正氏が、「これまで私は、自分が五十六の息子であると自ら名乗ったことはないんですよ。それでかえって煩わしい目に遭うのが嫌だったからです」と次のように語るのだ。

「終戦までは父が死んだ時のご下賜金があり、国から母に扶助料なども出ていたのですが、終戦後はGHQの指令でそれもストップ(注=昭和27年まで)。父が残したものといえば、鎌倉にあった家と多少の預金ぐらい。が、それも当時の経済統制で引き出せる額は決まっていました。

 また父が晩婚だったので、子供たちは小さいし、明日食べるものもないという有様で、父の在世中から住んでいて、いまも私どもが住んでいる青山の焼け野原になった家の敷地にバラックを建て、カボチャや大根、サツマイモなどを植えて暮らしました。水道の水も悪く、妹たちが腸チフスに罹って入院したこともありました。

 新しい家を建てられたのは戦後かなり経ってから。鎌倉の家を売ってお金を作ったりもしましたが、その窓ガラスが全部入るまで3年もかかりました。私もアルバイトをして何とか大学に通っていたんですよ」

子供の教育のために働いた母

 だが、そうした中で最も辛酸をなめたのは、いうまでもなく夫人の礼子さんだった。旧会津藩士の血を引き、1943(昭和18)年6月5日に執り行われた元帥の国葬では、「涙ひとつ見せない気丈さ」(戦史研究家)で知られた礼子さんは、知人の世話で日用雑貨の行商も始めた。

 義正氏によると、それは、「何を犠牲にしても、子供たちに教育だけは受けさせたい」という礼子さんの“悲願”によるものだった。

「母は生命保険の外交員として働きにも出ましたし、その後もいくつかの職を持ったように記憶しています」

 が、その礼子さんも1972(昭和47)年、76歳で亡くなった。死因は悪性のガン。義正氏によれば、礼子さんは、「戦争中からガンとの闘いが始まっていて、1944(昭和19)年には乳ガンの手術をし、死亡した時には全身がガンで冒されていた」そうだ。

栄えた大国がどんな興亡を繰り返すか

 そして、いま、昭和の終焉に立ち会った義正氏は、

「最近、私、ゴルフを始めたのですが、始めてみて父がゴルフをしなかった理由が分かりました。父は日露戦争で左手の指を2本失っていたので、やりたくてもできなかったんですよ」

 と明るく笑いながら、

「五十六の孫は4人います。私の子供が男女1人ずつ、次女の正子のところがやはり男女1人ずつ。皆20代ですが、彼らは五十六とはまったく関係ない人生を送ると思いますね。私の家では何かあるとすぐ父の仏前に報告するのが習慣なので、陛下(編集部注:昭和天皇)の崩御も直ちに父に伝えましたが、その時ふと思い出したのが、父が次官時代の海軍大臣だった米内(よない)光政大将の言葉。大将は私と父の墓参りをした際に、“栄えた大国がどんな興亡を繰り返すか。長い歴史の物差しで見ないと分からないが、常に安全ではないよ”といっておられました」

 今の世を泉下の元帥はどう見ているのだろうか。

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