戦争反対の立場ながら「真珠湾攻撃」を指揮…「山本五十六」長男・義正氏が昭和の終わりに明かしていた山本家の“父亡き戦中戦後”
山本家の昭和
1941年12月8日の「マレー作戦」と「真珠湾攻撃」によって太平洋戦争は始まった。このうち真珠湾攻撃を指揮したのは、日独伊の三国同盟に反対し、日米開戦に慎重論を唱えていた連合艦隊司令長官、山本五十六大将(死後に元帥)である。
真珠湾攻撃や元帥をめぐる各種の議論は研究家に譲り、シリーズ「週刊新潮が伝えた戦争」の今回は元帥の家族に注目する。元帥がソロモン群島ブーゲンビル島上空で戦死を遂げたのは1943(昭和18)年4月18日のこと。家族はその後、いかなる戦中戦後を過ごしたのか。昭和が終わった1989年1月、長男・義正氏は「週刊新潮」に“父亡き後の山本家”を語っていた。
以下に再掲するインタビューが行われた当時、義正氏は著述家としての活動を始めていない。『父 山本五十六』(朝日新聞出版)を上梓したのは2011年のこと。その翌年には「山本五十六記念館」(新潟県長岡市)の名誉館長に就任し、2014年6月4日に91歳で死去した。現在、記念館の館長は義正氏の長男、源太郎氏が務めている。
(以下、「週刊新潮」1989年1月26日号の特集「昭和史の家族」より「提督『山本五十六』遺児の戦中戦後」を再編集しました。文中の年齢、肩書き等は掲載当時の37年前のものです)
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【写真】新潟には復元された生家が…「山本五十六」の記憶をたどる
家のことは母に任せっぱなし
山本元帥の遺児は2男2女。長男の義正氏(67)は元帥が戦死した時、22歳だった。その義正氏が、いま、淡々としてこう語るのだ。
「当時、私は旧制成蹊高校の2年生。まもなく繰り上げ卒業となり、東大農学部に入学。以後一度軍に籍を置きましたが、軍人になろうとはまったく考えませんでしたね。父は寡黙な人で家のことは母に任せっぱなし。私どもにもああしろこうしろとは言いませんでしたし、軍人になれとも言わなかった。それに私は中学の時、結核を患い、体力的にも難しかったのですよ」
弟の忠夫氏(56)はそのころ12歳の小学生。戦争は2年後に終結したのだから、父親の跡を継ぐいとまもなかったわけなのである。
ともあれ、その元帥の遺族の戦中・戦後がどんなものだったのか。義正氏は東大入学直後、海軍航空隊に志願。「近眼だったためにパイロットにはなれなかった」ものの、理科系の学生であったところから整備将校に任官。「B29迎撃用の戦闘機、雷電の整備」に当たり、厚木の海軍飛行場で終戦を迎える。
大学に戻った彼は、大学院を修了後、一部上場企業に入社。もっぱら開発部門を歩き、10年ほど前、社長室調査役などを経て定年退職。現在は、友人が経営する会社の顧問を務めている。長女の澄子さん(64)と次女の正子さん(59)は結婚。次男の忠夫氏は、大学卒業後にテレビ関係の仕事に就いた。
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