日航機墜落の陰謀論を作り出したのは誰か 存在しない「オレンジエアー」に執着したジャーナリストの名前

国内 社会

  • ブックマーク

「旧軍出身の司令官が戦友に暴露」という噴飯モノのデマ

 訓練支援艦あづまが現場にいなかった事実が明らかになると、今度は角田四郎という人物が『疑惑』(早稲田出版、1993年)という著書の中で、低速標的機KD2R-5改の可能性を主張した。しかし、この標的機は艦艇の主砲の射撃用の標的であり、低高度を飛行するものだ。対地角度10~15度で発射されて195ノット(時速約360km)、運用高度7000フィートで飛行する。異常発生時に300ノット(時速約550km)、高度2万3900フィートで飛行していた日航123便に衝突するはずがない。

 角田氏はまつゆきに標的機の発射台を乗せた可能性にも触れているが、仮にそんなことをしても、訓練支援艦がいないと標的機は操縦できないことは先に述べたとおりだ。

 標的機説を信じて数冊の著書を出版した小田周二氏は、次のようなエピソードを書いている。「日航123便が墜落した当日の夕刻、航空自衛隊の基地司令官を務める人物から、ある男性に電話が入った。この司令官は、電話の向こうで男性にこう語った。『えらいことをした。標的機を民間機に当ててしまった。今、百里基地から偵察戦闘機2機に追尾させているところだ』。この司令官と男性とは、第二次世界大戦中に同じ部隊に所属していた戦友である」(『奪われた未来』文芸社、2025年)。だが、当時の空自の航空方面隊司令官、基地司令(航空団司令等を含む)を全て調べたところ、旧軍出身者は一人もいなかった。

 当時の自衛隊の主要指揮官は、旧軍経験者のほとんどがリタイヤし、旧軍経験のない一般大学出身者から防大1期生につなぐ時期だった。旧軍歴が確認できたのは、当時の森繁弘航空幕僚長(終戦時17歳で陸軍航空士官学校に在学)と古賀昭典航空総隊司令官(終戦時16歳で陸士61期生徒)の2名だけだが、終戦時は生徒として在学中で戦場に送られていない人物が「戦友」という言葉を使うのは違和感がある。そもそも2人とも事故当時に基地司令ではない(ちなみに空自には「基地司令」という役職はあるが「基地司令官」という役職は存在しない)。この旧軍歴のある「基地司令官」とは一体誰なのか。その説明責任が、著者の小田周二氏と出版社にあることは言うまでもない。

 ***

記事【拾った財布を届けたら泥棒扱い――日航123便の垂直尾翼を回収した「護衛艦まつゆき」元乗員の怒り】では、「日航123便を撃墜した」と名指しされてきた護衛艦「まつゆき」に焦点を当てる。事故当日の行動を示す公的記録や、当時の乗員が40年以上保管していた手書きメモから見えてきた事実とは。

真殿知彦(まどの・ともひこ)
1966年、千葉県生まれ。元海将。筑波大学附属高校、防衛大学校を卒業し、89年に海上自衛官に任官。2002年に筑波大学大学院地域研究研究科修士課程を修了。その後、アジア太平洋安全保障研究センター(ハワイ)、NATO国防大学(ローマ)の課程修了。第二航空群司令、海上自衛隊幹部学校長、海上幕僚副長、横須賀地方総監などを歴任。25年12月に退官。著書に、『海軍兵学校長の言葉 激動の時代に信念を貫いた』『江戸の城攻め 戦争を知らないサムライの失敗戦略』『提督の決断 東郷平八郎と山本五十六の光と影』(いずれも三和書籍)、『日航123便墜落 「撃墜説」の真相 海上自衛隊元最高幹部が解き明かす』(PHP研究所、2026年4月から全国学校図書館協議会の選定図書)、『小栗上野介の決断 日本の近代国家をデザインした信念の幕臣』(三和書籍)がある。

デイリー新潮編集部

前へ 1 2 3 4 次へ

[4/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。