海外の一流ホテルには、なぜスリッパが常備されていないのか――足元をめぐる異文化事情
1日がかりの観光を終えてホテルに戻り、客室でほっと一息……ここで靴を脱いでスリッパに履き替えたいと思う日本人は少なくないだろう。しかし、海外では一流ホテルであってもスリッパを常備していないところが結構あるようだ。はたして、日本人と西洋人との間には、スリッパの使用に対していかなる感覚の差があるのだろうか。
国際日本文化研究センター所長の井上章一氏は、新刊『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか 土足禁止の精神史』(新潮選書)で、近代から現代にいたるまでの東西の「土足事情」を考察している。以下、同書から一部を再編集して紹介する。
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テルのスリッパは日本流
日本のホテルは、たいてい客室にスリッパをそなえている。宿泊者は部屋へはいると靴をぬぎ、すぐスリッパにはきかえることができる。その提供は、標準的なサービスのひとつになっている。
いっぽう、欧米のホテルにスリッパを常備しているところは、あまりない。部屋のなかで、靴をはかずにすごしたがる人が、少ないせいか。くらべれば、スリッパへのこだわりは、欧米より日本のほうが強い。そのせいだろう。
この履き物は日本でつくられたと考える人も、けっこういる。だが、そんなことはない。江戸時代の長崎にいたオランダ商人たちは、スリッパの常用者である。まだ、日本にスリッパがでまわる前から、彼らはそれをつかっていた。
17世紀のオランダ画家が描いた足元
『豆の王様の祝宴』と題された絵画がある。制作したのはヤン・ステーンというオランダの画家であった。制作されたのは1668年だとされている。
17世紀の農村生活をとらえた、一種の風 俗画である。酒によった人びとの宴会風景が表現されている。画面の手前にいる、大きくえがかれた男女の足元をながめてほしい。どちらも、足先しかつつまない履き物をはいている。その底面は、はなはだうすっぺらい。うたがいようもなく、両者がひっかけているのはスリッパである。
この絵がリアリズムで描写されていると、言うつもりはない。画家は現実の情景をこえた何かも、あらわそうとしていたろう。その都合で誇張されたところだって、あったかもしれない。
しかし、生活の細部、民具や服装などは、リアルに表現されていただろう。絵にこめられた寓意がなんであれ、この時代にはスリッパが実在した。そのことまでうたがう必要はないと考える。
ずばり『スリッパ』と題された絵まで
あと1点、オランダの絵を紹介しておこう。サミュエル・ファン・ホーフストラーテンという画家に、『スリッパ』という作品がある。文字どおりスリッパと題された17世紀の絵が実在する。日本で言えば江戸前期の絵画である。
画面には、ふたつの部屋がえがかれている。手前の部屋と奥の部屋である。両室のあいだには通路があり、そこには1足のスリッパがおかれていた。右側から通路へさしこむ光が、これをてらしだしている。絵の主題が、タイトルどおりスリッパにあることは、あきらかである。
住み手は、通路でスリッパと靴をはきかえていた。絵の手前と奥は、スリッパ用の空間と靴用の空間にわけられている。具体的に、どういう履き分けがなされていたのかは、わからない。しかし、スリッパと靴を併用する生活が、17世紀のオランダにはあったようである。
出島のオランダ商館でも、スリッパと靴は、ともにもちいられた。がいして、畳の部屋ではスリッパがはかれやすかったと思う。そして、両者を併用する生活様式は、畳がない本国のオランダにもあった。スリッパを、ことごとしく日本起源とみなすべきではない。
■『北槎聞略』に載ったスリッパ
『北槎聞略』という文献がある。1794年にまとめられた。大黒屋光太夫という船頭のロシア見聞記である。1782年に海難事故で、光太夫はアリューシャン列島の島へたどりつく。以後、10年にわたり、その島やロシアでの生活を余儀なくされた。
日本へかえってからは、桂川甫周に漂泊の体験を語っている。これは、甫周がしるした聞きとりの記録であり、幕府の調書でもある。この見聞記には、挿図もそえられた。ロシアの食器や衣服などが、イラストでしめされている。
靴類をならべたところには、スリッパの絵もおさめられていた。どうやら、ロシアでもスリッパは使用されていたようである。そして、編者はそれを日本へ紹介してもいい履き物だと、判断した。日本にはない、ロシアならではの生活品だとうけとめている。図示したのも、そのせいであろう。
■ゴロウニンの見た草履
光太夫の遭難から、おおよそ30年ほどたったころのことである。やはり、ロシアとかかわる、べつの事件が勃発した。クナシリ島などの測量につとめていたロシア海軍のゴロウニンを、幕府が捕縛したのである。また、1813年に釈放するまで、幕府は彼を捕囚としてあつかった。
そのゴロウニンが、日本での幽囚体験を書いている。そこに、草履をはく日本人へのコメントがのっていた。「われわれがスリッパをはく時のやうに、手もふれずに、至つて便利さうに草履をはき」、と。
ゴロウニンは、スリッパを「われわれ」の履き物だととらえていた。日本にもスリッパがあったとは考えていない。彼にとって、日本で見た草履は、その類似品でしかなかったのである。
南北戦争期のアメリカにも
アメリカで、いわゆる奴隷解放宣言が発表されたのは1863年であった。その文章をまとめたのは第16代大統領、エイブラハム・リンカンである。『奴隷解放宣言を執筆するエイブラハム・リンカン』という絵がある。宣言の発表と同じ年に制作された。えがいたのは、デイヴィッド・ギルモア・ブライズという画家である。
リンカンは椅子にすわり、テーブルの上で文案をまとめようとしている。その参考資料であろうか。新聞をはじめとする多くの文献を、身のまわりへ乱雑においている。ちらかった室内の様子は、執筆に没頭する精勤ぶりをしめしてもいただろう。
草稿へむきあうリンカンは、スリッパをはいていた。この履き物に、底の厚みはない。底面は、全体的にひらべったくできている。サンダルと混同されうる余地はない。リンカンは上着のジャケットをはおっていなかった。ワイシャツの袖をめくり、襟元のボタンもはずしている。
礼装からは、ほど遠い。いたってラフないでたちになっている。スリッパは、肩肘はらないそんなよそおいにあわせた履き物か。もちろん、この絵は、まったくの虚構だった可能性もある。しかし、とにかく南北戦争期のアメリカに、スリッパは実在した。靴よりは奥むきの、ややルーズな履き物としてイメージされていたことも、しのびうる。
奴隷解放宣言を書くリンカンの絵にもスリッパはすでに登場していたのだ。ただ、これを室内専用へと純化させたのは、20世紀後半以降の日本人だったのかもしれない。舶来の履き物は、日本で独自の機能を持つ履き物の地位を得たのである。
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※本記事は、井上章一著『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか 土足禁止の精神史』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。











