南蛮時代に来日した宣教師たちは、畳の上で「靴」を脱いだのか――史料から浮かび上がる「意外な事実」
16世紀に来日した宣教師たちは、屋内では靴を脱いでいたのか。それとも西洋の習慣にこだわり、畳の上でも靴を履いていたのか。
国際日本文化研究センター所長の井上章一氏は、史料の行間や画像から、南蛮時代の「土足事情」を浮かび上がらせる。以下、新刊『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか 土足禁止の精神史』(新潮選書)から一部を再編集して紹介する。
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畳の上で靴を履いた西洋人はいた
いわゆる南蛮時代に来日した宣教師は、日本家屋でくらしていた。しかし、彼らが屋内で外履きをぬいでいたのだろうか。畳の上で靴などありえないとも思えるが、そんなことはない。日本家屋の床に土足であがりこんだ西洋人の記録は、けっこうある。
たとえば、19世紀初頭に川原慶賀という絵師がえがいた『唐蘭館絵巻』の一場面がある。長崎の出島にあったオランダ屋敷での酒宴を、画題にしている。
そこには、畳がしきつめられていた。だが、床の上にオランダ人は椅子やテーブルをおいている。のみならず、靴をはいていた。彼らは、日本にも屋内での土足生活をもちこんでいたのである。
南蛮時代は、これより二百数十年ほどさかのぼる。だが、カトリックの宣教師も、畳の上を靴履きのまま歩いた可能性はある。ざんねんながら、南蛮屏風の画像からは、その実情が読みとれない。畳の上にいる来日宣教師の足は、たいてい長いローブでかくれている。はだしか靴下か、それとも土足なのかはわからない。絵師たちは、そこをえがいてこなかった。
■フロイスが記した堺の陋屋
私は、しかし思っている。家の中で、彼らは外履きをぬいでいたろう、と。そうおしはかる根拠を、ひとつしめしておく。
1565年に、京都から宣教師らが追放された。堺へしりぞき、そこで畳が100枚しかれた教会をたててもらった。その教会ができる前に、同じ堺で彼らは寝泊まりするための家をかりている。フロイスによれば、つぎのようなみすぼらしい家屋であった。
「屋根は老朽しており、雨が降ると、彼らは泥のために下駄をはいて家中を歩き廻り、時には傘をさし、そうして粗末な家財を雨漏りの少ないところへ転々と移した」(『完訳フロイス日本史(2)』2000年)
下駄なしでは暮らせない家
雨もりの時は、家の床が泥にまみれたという。おそらく、床板などのしつらいは、部分的にしかほどこされていなかったのだろう。過半は、あまりつきかためられていない土間だったにちがいない。あるいは、土間だけだった可能性もある。
だから、床はすぐ泥だらけになった。家の中なのに、下駄をはかねば、くらしていけないような陋屋だったのだと考えられる。
そして、そのことをフロイスは、わざわざ書きたてた。雨のさいは、屋内でも外履きの下駄が必要になるすまいであった、と。
ほんらいなら、そういう履き物はいらないはずだという言外の住居観が、読みとれる。屋内の土足ははばかるという日本的な習慣を、彼らなりにうけいれていたのだろう。
■板ぶき屋根と畳の関係
フロイスらがいた16世紀の日本に、瓦ぶきの屋根は、まだあまり普及していない。少なくとも、庶民住宅の多くは板ぶきの屋根になっている。上に置き石をのせて、それが風でとばないようにはされていた。だが、板屋根だと、雨水はいやおうなくもる。フロイスらが堺で入居しだした家も、そういう物件であったろう。
瓦のない家は漏水がふせげない。どうしても、天井から床へおちてくる。必然的に、そういう家屋へ水に弱い畳はしきにくい。家具なども、すぐいたむ。畳や建具などのしつらいに、板ぶきの屋根はむいていない。それらが普及するためには、瓦屋根の一般化が不可欠の条件となっていたのである。
キリスト教の施設である教会や神学校には、しばしば畳がしかれていた。襖や障子などもそなえられている。16世紀の建築としては、けっこうりっぱな物があたえられていたのだと、みなしたい。畳じきの建物を提供した有力者たちは、それなりに遠来の客へ気をつかったのである。
ただ、時には庶民なみの家でがまんをしなければならない場合もあった。そして、そういう時だけは、屋内での下駄履きを余儀なくされたのだと考える。少なくとも、雨の日は。
将軍義輝との対面
室町幕府の将軍である足利義輝は、1560年にキリスト教の布教を肯定した。ガスパル・ヴィレラに、教会の保護も約束している。以後、ヴィレラらは京都でくらしだす。だが、将軍義輝は1565年に殺害された。
これで、5年前に将軍があたえた布教の許可は反故となる。宣教師らが京都から河内へおちのびたのも、そのせいである。フロイスが来日したのは1563年であった。京都まできたのは、その2年後である。
そして、フロイスはヴィレラともども、将軍義輝の居館へおもむいた。教会への好意的な姿勢に、感謝の意をつたえるためである。義輝じしんがあやめられる、その4カ月半ほど前であった。
■「母堂」が漏らした称賛
義輝は彼らをてあつくもてなしたらしい。また、彼らが自分の妻や母と面談する機会も、あたえている。フロイスは書く。「公方様の母堂」とむきあったのは、畳をしきつめた「広間」であった。そこでは、「多数の貴婦人たち」と食事をともにする。そして、食後、「母堂」はフロイスらに、こうつげた、と。
「異国の人たちには、日本の礼式はさぞかし新奇で不馴れに相違ないのに、彼らがそれらの礼式にいとも通じているのは驚くべきことだ」(『完訳フロイス日本史(1)』2000年)
外国の人たちが日本の作法にしたがったことを、ほめている。
この言葉はフロイスらが箸をつかいこなしていることへ、むけられた。前後の文脈からは、そう読める。宣教師たちが靴をぬいで「広間」へあがったことは、とくにさしていない。
■畳の上では靴を慎んだはず
だが、どうだろう。もし、彼らが土足のまま畳の「広間」を歩いておれば、どうなったか。その場合、義輝の「母堂」がフロイスらへほめ言葉をかえしたとは、思いにくい。たとえ、箸さばきがあざやかであっても、あきれたのではないか。
「不馴れ」な「日本の礼式」によくぞなじんでくれました。こういう感銘を彼女らがいだいている以上、以下のように判断せざるをえない。やはり、彼らは畳の上へ土足であがることをつつしんだのだ、と。
権力者に取り入り、布教を後押ししてもらう。そのためには現地の習慣に溶け込む。このような相手に合わせる態度を西洋人が取ったのは、両者の関係が対等だったからかもしれない。幕末の外交官たちが靴のまま城に上がったのとは対照的に、宣教師たちは畳の前で従順だった。「打算」もまた異文化間の橋渡しをするのかもしれない。
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※本記事は、井上章一著『日本人はなぜ家で靴を脱ぐのか 土足禁止の精神史』(新潮選書)の一部を再編集して作成したものです。










