村上春樹3年ぶりの長編小説『夏帆』に登場するLPレコード――その楽しみ方を徹底解説 二つあるカザルス盤、夏帆が聴いたのはどっち?

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実は、演奏不可能の曲だった……

 実は、【A】1950年のころ、この《第2番》のトランペット・パートは、ほぼ演奏不可能に近い曲だったのです。

 バッハ時代のトランペットは、現代のようなピストンやバルブのない、ただの「管」(ナチュラル・トランペット)でした。よってかぎられた自然倍音しか出せず、“複雑な旋律”は苦手でした。

 ところが、当時バッハが勤務するケーテン宮廷楽団には、超高音域で“複雑な旋律”をこなせる、ヨハン・ルートヴィヒ・シュライバーなるすごいトランペット奏者がいたのです。《第2番》は、おそらく彼が吹くことを想定して書かれたと思われます。よってこの曲のトランペット・パートは、超高音域だらけの難曲になってしまったのです。

 やがてトランペットにピストンやバルブが付き、“複雑な旋律”が演奏できるようになりました。しかし、そのために音域はかぎられ、超高音域は出せなくなります。かくして《第2番》は、演奏不可能に近い難曲になったというわけです。たまに、ナチュラル・トランペットをこなせる奏者がいれば演奏できましたが、あとは、1オクターブ下げて演奏したり、ホルンなどほかの楽器で代行するしかありませんでした。

 ところが、1959年、フランスの天才トランペット奏者、モーリス・アンドレが、セルマー社と共同で、「ピッコロ・トランペット」を開発します。いままでより、1オクターブ高い音域が出せる画期的な楽器でした。現在《第2番》は、このピッコロ・トランペットで演奏されることが、ほとんどとなっています。

 つまり、【A】1950年の時点では、まだピッコロ・トランペットがないうえ、おそらくナチュラル・トランペット奏者を確保することもできなかったのでしょう。そこでカザルスは、音域と音量が近いソプラノ・サクソフォンに代行させたのでした。そこまでして、カザルスは、この曲を録音したかったのです。

 しかし、【B】1965年のころには、すでにピッコロ・トランペットが登場していました。そこで、ロバート・ナーゲルの同楽器による演奏で“再録音”したのです。

 夏帆が聴いたのは、おそらく【B】1965年のピッコロ・トランペットでしょう。しかし、父親はたいへんなLPコレクターのようですから、もしかしたら、【A】1950年のソプラノ・サクソフォン盤も、棚にあったかもしれません。

 先述のように、パブロ・カザルスは、“反骨のひと”でした。よって、どちらも〈柔らかな栗色の毛並みの、たくましい熊さん〉のような気もするのです。そんなことを思いながら『夏帆』を読むのも、楽しみのひとつではないでしょうか。

 なお、これらの音盤については、村上氏自身『古くて素敵なクラシック・レコードたち』『更に、古くて素敵なクラシック・レコードたち』(ともに文藝春秋刊)のなかで詳しく触れているものもあるので、興味のある方は、ぜひ、それらもご参照ください。

富樫鉄火(とがし・てっか)
昭和の香り漂う音楽ライター。吹奏楽、クラシックなどのほか、本、舞台、映画などエンタメ全般を取材・執筆。シエナ・ウインド・オーケストラなどの解説も手がける。

デイリー新潮編集部

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