ショパンは「好き」で、バッハは「おもしろい」? 音楽大学の学生たちはなぜ異なる反応を見せるのか

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バッハを聴く人は「頭がいい」? ショパンとの違いにみるバッハ音楽の秘密

 クラシック音楽になじみがない素人にとっては、ショパンだろうがバッハだろうが、同じような感じの「美しい曲」に聞こえてしまう。しかし当然ながら、音楽に詳しい人からすれば、ショパンとバッハはまるで異なる特性を持つ作曲家だという。

 たとえば、音楽大学のピアノ科の学生に、ショパンとバッハのどちらが好きかと尋ねると、きれいに反応が分かれるそうだ。岡田暁生さんと片山杜秀さんの対談本『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)から、一部を再編集してお届けしよう。

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岡田:それにしても、一体なぜバッハがここまで日本人の心をとらえたのか。思うにバッハの音楽の普遍性の秘密は、「コンポジション」にあるんじゃないか。

「コンポジションとしての音楽」を、あそこまで極めた作曲家はほとんどいないだろう。徹底的にコンポーズ(組立て)された音楽。音と音を組み合わせて「構成」された音楽。あの客観性と徹底性はすごい。そして……これはこれですごくキリスト教っぽいよね。異教徒を改宗させるためには、徹底的な抽象化を行なう必要があった。私はここに、すごく科学的数学的であると同時に、すごく神学的である何かを感じます。
 
片山:そうですね。究極に向かって徹底していこうとする異常なまでのこだわりの世界ですね。カトリックのぬるま湯的な世界観を突き破って、人間はここまでやらねばならない、感じねばならないと突き詰める怖さがありますよね。

岡田:バッハの音楽を理解する鍵は、やっぱり「和声的な音楽 vs 対位法」だと思うんです。そして、対位法の極致に「フーガ」がある。これらの特徴やちがいも含めて、バッハなら何を聴くべきかみたいなことを、少し語っておきませんか。

片山:まず対位法なら、楽器が指定されていない、究極の抽象的音楽ということで《フーガの技法》BWV1080でしょうか。

岡田:そうですね。それに対して和声的なバッハを知りたければ、オルガン・コラールでしょうか。BWV639のコラール前奏曲《われ汝に呼ばわる、主イエス・キリストよ》などが典型ですね。これはもう山ほどありますから。

 対位法って客観的な秩序を表現するのに適しているんですよね。宇宙のすべてのものが固有の運動軌道を持っていて、各々が固有の時間で回りながら、しかしすべてが調和している、それこそが神の創造物だ、というような世界。

片山:多即一ですね。

岡田:複数のパートが、それぞれ独自にメロディーを奏でるんだけど、しかし、それらが全体として小宇宙になっている。それに対して、和声というのは全部が同時に鳴り響き、全身にビンビン響きますからね、感情吐露に向いているんですよね。ハーモニーの音楽は17世紀ぐらいから本格的に生まれてきたものです。ということは、この時代あたりから、音楽が徐々に感情表現になり始めてきた。

片山:瞬間の響きに溺れるのが和声だろうから、対位法には絶対にそれなりの時間進行が必要だけれども、ハーモニーの一撃ということなら瞬時ですね。喜怒哀楽はやはり瞬間性にその要諦がある。

岡田:対位法というのは科学というか、数学みたいなところがあるから、感情ではどうにもならない。ちなみに音大ピアノ科の学生さんたちは、総じてバッハにあまり興味がない。たぶん感情吐露ができないからだと思う。でもたまに「バッハがすごく好きだ」という学生がいて、ほとんど例外なくそういう学生は頭がいい(笑)。塾で数学講師のバイトをやっているようなタイプの子が多いというのが私の経験則です。

片山:なるほど。音楽に求めているものがそもそも違うのか。

岡田:そういう学生は、バッハを「好き」と言わず、「おもしろい」って言うんですよね。「この曲の構成がおもしろい」とか、そういう反応なんです。他方、ピアノ科学生に圧倒的人気のあるショパンですが、ショパン好きの子は、みんな「あの曲が好き」と言う。和声的な音楽にうっとりと感動するのが好きってことでしょうかね。

片山:その話が、今日、もっとも端的にバッハの特性をあらわしているかもしれませんなあ。ポピュラーミュージックは、何といっても和声的でしょう。コード進行がすべてというくらいで。それで、気持ち良くもってゆくようにできているわけだから。

※岡田暁生・片山杜秀『ごまかさないクラシック音楽』(新潮選書)から一部を再編集。

デイリー新潮編集部

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