村上春樹3年ぶりの長編小説『夏帆』に登場するLPレコード――その楽しみ方を徹底解説 二つあるカザルス盤、夏帆が聴いたのはどっち?
室内楽の傑作、ブラームス《クラリネット五重奏曲》
『夏帆』には、こんな場面もあります。
〈父親は自分専用の安楽椅子に座り、ブラームスの『クラリネット五重奏曲』を聴きながら(そのレコードは父親の長年にわたる愛聴盤で何度も聴かされていたから、夏帆も曲名を覚えていた)、老眼鏡をかけて雑誌を読んでいた。たぶん医学の専門誌だろう。「小児学会会報」だか、そのような類いのものだ。〉
ブラームスの《クラリネット五重奏曲》といえば、彼の室内楽曲の最高傑作のひとつです。ここでも具体的な奏者名はありませんが、後段に〈古いLPレコードで聴くブラームスの『クラリネット五重奏曲』〉とあるので、先述の演奏家たちと同世代の音盤だと思われます。
だとしたら、おそらく、レオポルト・ウラッハのクラリネット、ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団による、1951年録音の、ウエストミンスター盤でしょう。本曲を語るうえで欠かせない名盤です。
ウラッハは、戦前はウィーン・フィルの首席クラリネット奏者でした。彼の音色は、現代のクラリネットとは、かなりちがいます。というのも、彼のクラリネットは、現代のベーム式などが普及する以前の、ウィーン式といわれる古いタイプなのです。これこそ〈いくぶん古風な美しい音楽〉です。
さて、そんな音盤の話題がいくつか登場する『夏帆』ですが、クラシック・ファンにとって、たいへん興味深い音盤が登場します。
〈夏帆はコレクションの中からパブロ・カザルスの指揮したバッハの『ブランデンブルク協奏曲』の、ボックス入りアルバムを選び、一枚をレコード・プレイヤーに載せ、針を落とした。夏帆はクラシック音楽はとくに詳しくないけれど、そのレコードは昔からとくに気に入って、一人で時折聴いていた。『ブランデンブルク協奏曲』は有名だから、多くの演奏家が取り上げて演奏しているが、本職はチェリストであるカザルスの指揮する盤ほど、じかに心に呼びかけてくる演奏を夏帆は耳にしたことがない。〉
パブロ・カザルス(1876~1973)はスペインのチェリストです。それまで単なる練習曲だと思われていた、バッハの《無伴奏チェロ組曲》を第一級の芸術作品としてよみがえらせた、20世紀最大のチェリストです。平和活動家としても知られ、スペイン内戦やフランコ独裁政権を嫌い、フランスに亡命。一時期、抗議の意味で演奏活動を停止した、“反骨のひと”でもありました。チェロだけでなく、指揮者としても大活躍しています。
夏帆は、小学校高学年のころ、このカザルスの《ブランデンブルク協奏曲》を聴いて、父親に、〈「この演奏はずいぶん力強いけれど、同じくらいずいぶん優しいよね。柔らかな栗色の毛並みの、たくましい熊さんみたいに」〉との感想を述べています。このとき父親は〈ちょっと驚いたように夏帆の顔をしばらく見ていた〉そうです。
余談ですが、村上文学ファンであれば、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』にも、この音盤が登場していたのをご記憶でしょう――〈「パブロ・カザルスの『ブランデンブルク』は聴いたことある?」/「ない」/「あれは一度聴いてみるべきね。正統的とは言えないにしてもなかなか凄味があるわよ」〉(第35章)。
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