村上春樹3年ぶりの長編小説『夏帆』に登場するLPレコード――その楽しみ方を徹底解説 二つあるカザルス盤、夏帆が聴いたのはどっち?

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2つある、カザルス指揮の音盤

 ところで、《ブランデンブルク協奏曲》は、第1番から第6番まであるのですが、夏帆が聴いたのは、第何番なのでしょうか。後段に、こう書かれています。

〈パブロ・カザルスの指揮する『ブランデンブルク協奏曲』第二番ヘ長調。(略)父親はどのような気持ちでこの音楽に耳を澄ませていたのだろう? 彼はこの音楽を聴くたびに「柔らかな栗色の毛並みの、たくましい熊」の姿をふと思い浮かべたりしただろうか?〉

 夏帆が聴いていたのは《第2番》でした。しかし、この音盤についての具体的な説明はありません。ここでクラシック・ファンは、迷路に入り込むかも? というのも、パブロ・カザルスが指揮した《ブランデンブルク協奏曲》の音盤は「2種類」あるのです。

【A】プラド祝祭管弦楽団、1950年録音、コロムビア盤
【B】マールボロ祝祭管弦楽団、1965年録音、コロムビア盤

 一般的に、カザルスの《ブランデンブルク協奏曲》といえば、【B】が名盤として知られています。夏帆が聴いた父親のコレクションも「ボックス入り」とあるので、おそらく【B】でしょう。どちらも演奏解釈は共通しており、演奏時間もほとんどおなじです。特にこの《第2番》は超スピードで、疾風怒濤の演奏で知られています。昨今のオーセンティックな古楽器演奏に慣れた方が聴いたら、度肝を抜かれるのでは? たしかに〈凄味がある〉演奏で、夏帆が「たくましい熊さん」と評したのは、さすがの耳だといわざるをえません。

 ところが、……この2つの音盤には、ある決定的なちがいがあるのです。

《第2番》は、ソロ楽器として、トランペット、リコーダー(フルート)、オーボエ、独奏ヴァイオリンの4者が指定されています。

 上記の名盤【B】のトランペットは、ロバート・ナーゲル(1924~2016)が演奏しています。アメリカで活躍した名トランペット奏者です。ニューヨーク・ブラス・クインテットの創設者でした。

 ところが【A】のほうには、トランペット奏者の名がないのです。そこには、フランスのサクソフォン奏者、マルセル・ミュール(1901~2001)の名があり、楽器は「ソプラノ・サクソフォン」となっているではありませんか。このミュールというひとは、クラシック・サクソフォンの奏法を確立させ、「パリ・サクソフォン四重奏団」を結成したひとです。

 つまりカザルスは、【A】1950年の録音の際、本来のトランペットが吹くパートを、「ソプラノ・サクソフォン」に代行演奏させているのです。

 現在、【A】も【B】も、You Tube上に音源がありますから、試しに聴き比べてみてください。【A】では、特徴的な、冒頭トランペットの華やかな響きが聴こえません(録音が古いせいもありますが)。そのかわり、どこか鄙びたというか、猫か犬が走り回るような、すばしこいソプラノ・サクソフォンのフレーズが、音色が近いオーボエとからみ合って、独特な音空間を生み出しています。

 いったいなぜカザルスは、トランペットを、ソプラノ・サクソフォンに替えたのでしょうか。

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