なぜ「ムカつく」は「不快」を意味するようになったのか…病気のデパート「夏目漱石」を通じて「社会の胃腸化」を専門家が説く
作品から感じる“力み”
「漱石は、頭の中だけでちょこちょこと考えて小説を書き上げられるほど、器用な人ではなかった気がします。漱石に批判的だった正宗白鳥は、漱石作品を評して、読者を無理におもしろがらせようとしていると指摘しました。たしかにどの小説を読んでも、ちょっと前のめりで、ぎこちないところがあるように思えます。
たとえば『明暗』だと、“果たしてこの二人はどうなってしまうのでありましょうか……”と、実況中継でもするような地の文がやたら差し挟まれて、さすがにやりすぎかなと感じたりもします。
漱石は教師の職を辞して新聞社に入り、紙面上で小説を連載しました。どうにかして多くの人に読んでもらい、新聞をもっと売らなければという切迫感は強かったはず。家柄がよく財産のある志賀直哉のような作家なら、あくせくせずにいられるでしょうが、漱石はそうじゃありません。とにかく書いて稼がなくてはいけなかった。
そうした立場からくる“力み”を作品から強く感じますが、それはそれで悪くないと思います。不器用ながら一所懸命ものごとにあたる人の姿には、惹かれるものがありますから。すこし力みがちなところは、漱石の持ち味になっています」
胃腸と文学作品の関係性はかくも多様かと驚かされるが、着目すべきポイントはまだあると阿部教授は言う。胃腸の「粘膜性」にも目を向けたいというのだ。
社会全体の胃腸化
「胃腸の表面は粘膜です。粘膜とは、人間の内と外の境目にあって両者の行き来を仕切る大切な部位。そこが弱いということは、対人関係が苦手であることの表れとも考えられます。たとえば“鉄の胃”を持つような体質の人は、どんな相手にも張り合えて、何を言われても平気でいられそうです。対して粘膜が弱い人は繊細で、ちょっときついことを言われたらすぐ心身ともに傷ついてしまう。そうした面に着目して登場人物、ひいては文学作品全体を読み解いていくことはできそうです」
さらには、胃腸の不調から起こる「嘔吐」や「ムカつき」も、文学と深く関わるのではないかとも言う。
「文学作品には、気持ち悪くなって嘔吐する人がよく出てきます。特に現代文学に例は多く、サルトルには『嘔吐』という作品がありますし、大江健三郎『個人的な体験』でも重要な場面で主人公が嘔吐します。近年でいえば、本谷有希子や絲山秋子といった作家が吐き気や嘔吐の場面を印象的に書いています。
漱石の場合、嘔吐の描写はありませんが、胃が重くてムカつきを感じている話はよく出てきます。文学は言葉にならない微妙な感覚や、心の内のように見えないものを文章で表現しようとするもので、生理的な反応はそれらに触れるための入口となります。嘔吐はその格好の例だといえます。
また、このところよく耳にする表現として、『ムカつく』という言葉があります。本来は胃腸の不調を指すものでしたが、不快なこと全般に対して使われるようになりました。なぜ私たちは、胃腸の状態を表す言葉によって、あらゆる物事を捉えようとするのか。社会全体が胃腸化している表れをここに読み取ることができるかもしれません。
社会を反映する文学においても、胃腸化は着々と進んでいるのではないでしょうか。夏目漱石や、彼と同時代の文学者たちの胃腸性を読み取るところからはじめ、現代文学の胃腸性まで見極めていけば、文学の大きなテーマとなりそうです。これはまだまだ未開拓の分野ですから、文学に関心を持つ多くの皆さんとともに、文学の胃腸性について考えていきたいところです」
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前編【「実は起業家精神に溢れていた」…ビジネスパーソンが読み直すべき「夏目漱石」はなぜ「胃腸」の不調を描いたのか】では、夏目漱石の作品を胃腸というテーマから具体的に解説する。
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