高校時代に読んでピンとこなかった人必見 “漱石再読”のススメ 〈私の夏目漱石体験(3)〉

文芸・マンガ週刊新潮 2016年4月14日号掲載

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夏目漱石

 各界の著名人が自身の「夏目漱石体験」を語る本シリーズも、今回が最終回。紹介する作品は『坊っちゃん』や『吾輩は猫である』に比べて、やや通好み? “読まず嫌い”のアナタや、以前に読んで挫折したアナタも、この「没後100年」を機に、文豪の作品に手を伸ばしてみては。

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 浪人生時代に漱石作品と出会ったというのは、早稲田大学の石原千秋教授(日本近代文学)だ。

「当時、付き合っていた女性にフラれ、その反動なのか、新潮文庫の明治・大正期の近代文学作品を猛烈な勢いで読み始めたのです。漱石も全部読みましたが、中でも『彼岸過迄』には衝撃を受けました」

夏目漱石『彼岸過迄』(新潮文庫)

 それは、主人公の須永市蔵が、自身に好意を寄せる従妹の千代子から、結婚を決断できない態度を責められる場面だった。

「“何故嫉妬なさるんです”と泣きながら責められる場面に“女性は怖い”と縮み上がりました。半年間、近代文学を読みふけりましたが、漱石ほど女性の恐ろしさに斬り込んだ作家はいないと思いました。谷崎潤一郎や川端康成は女性の肉体を描くのが上手いですが、女性の心理を書くのは漱石が一番だと、僕は今でも信じています」

 さらに石原教授は、漱石作品には「女は謎だ」というテーマがちりばめられていると分析する。

「当時のエリート知識人にとって、女性は謎でした。江戸期の260年間、武士階級は親の勧める縁談に従うだけで、男女交際のノウハウを忘れてしまった。一方で『進化論』が日本に入ってきて、男と女が初めて“対等な性”として意識されるようになりました。にもかかわらず、当時の礼法の本には『女性は内心で怒っても表情に出しちゃいけない』などと書いてある。ただでさえ理解しにくい女性の心理が、一層読みにくくなった時代なんです」

 田山花袋の『蒲団』には、「今では情を巧に顔に表す女が多くなった」と女性の変化を指摘した一節がある。

「漱石は、そうした女性の変化に敏感に反応した。交際相手にフラれて女性の恐ろしさや不可解さに苛まれていた私に、漱石の“女は謎”という問いかけはぴったりシンクロしましたね」

■「ちょっと、私の人生と似ているかも」

 漱石への共感は小説にとどまらない。彼が苦悩の末に掲げた個人主義に、若き日の自分を重ねるのは、菅義偉官房長官である。

「講演録『私の個人主義』を読んで、漱石の『自己本位』という考えに大変共感しました。私は秋田の農家の長男で、高校卒業後は家を継ぐか東京に出るか、結構迷いました。結局、東京の町工場に就職しましたが、何も良いことがなかった。それで2年かけて大学に入り、卒業後も2年間働きながら迷い続けた後“これしかない”と政治の道に入った。様々な伝手を頼って、ようやく秘書の職を得て、11年間務めました。以前はふらふらしていましたが、秘書になってからは今に至るまでアクセル踏みっぱなしです。漱石もイギリスに留学したものの文学研究に没頭できず“この世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない”と焦りを募らせた。そして『自己本位』、つまり“自分が好いと思った事、好きな事”にぶつかっていくしかないと考えるに至って、ようやく楽になるわけです。そこがちょっと、私の人生と似ているかも、と感じたのです」

夏目漱石『明暗』(新潮文庫)

■安部龍太郎氏、イッセー尾形氏の『明暗』

 最後の作品『明暗』は、漱石の死により未完に終わっている。その点、他の作品と較べると一般の読者には馴染みが薄い印象があるが、直木賞作家の安部龍太郎氏は、ここに漱石の真骨頂を見出せると話す。

「私が文学に目覚めて文章を書き始めたのは、久留米高専5年生だった20歳の頃。太宰治や坂口安吾といった戦後無頼派から読み進めるうちに、次第に作家が自分の現状や心情をさらけ出すばかりで“物語性”が希薄であることに飽き足らなくなった。その時に漱石の『道草』や『明暗』を読んで、これは大変な作家だと再認識したわけです」

 安部氏は、漱石の作品は徹底して人間心理に分け入った大人の小説と指摘する。

「漱石は人の心理を1年、1月、1日、1時間、1分と微分していく。そして心の一瞬の動きを克明に描くことで、人物の全てを描けると考えた。『明暗』は日本の小説史における、ベスト1の名作だと思います」

夏目漱石『坑夫』(新潮文庫)

 俳優のイッセー尾形さんも、『明暗』に注目しているという。昨年12月に早稲田大学大隈記念講堂で『坑夫』『草枕』『』と共に『明暗』をネタにした『妄ソーセキ劇場』を上演し、好評を博した。

「僕が演じた吉川夫人は、主人公の津田の上司の妻であるのをいいことに、津田に妻との仲を根掘り葉掘り聞いてみたり、津田のかつての恋人に会いに行くよう唆したりと言葉で津田の主体性を奪っていく。他人の人生を支配したいというこの小さな欲望に歯止めがかからなくなると、4年前に発覚した尼崎連続変死事件のような状況が生まれるのかもしれません。そういう意味で、吉川夫人は現代的な存在ですね」

 尾形さんは、『明暗』ではとくに女性の存在感が強調されていると言う。

「津田の妻のお延(のぶ)が、何かというと形の良い眉をぴくぴくさせる、という印象的な描写があります。そんなお延がもし津田と元恋人が滞在する宿に乗り込んだりしたら、その眉はどうなってしまうのかと心配になるほどリアリティがあるんです。存在感だけでなく、『明暗』の女性たちは漱石作品では珍しく、よく喋る。彼女たちの言葉は、ひとつひとつが現代人にも響く、生命力のある言葉です」

 最後に、三島賞作家の久間十義氏による“漱石再読”のススメをご紹介しよう。

「年齢を重ねたり、漱石門下の小宮豊隆や内田百間などのエッセイに触れたりすると、漱石作品の“読み味”が変わってきます。馬齢を重ねて、今が“漱石適齢期”なのかもしれません」

 適齢期と感じる方もそうでない方も、今年は改めて「夏目漱石」体験にチャレンジしてはいかがだろう。

「特集 まもなく没後100年! 生誕150年!『坊っちゃん』に出逢った!『明暗』に学んだ! 読み巧者10人の『私の夏目漱石』体験」より