フェイクニュースのある社会こそが民主的? 言論の自由は有事にも守られるのか(古市憲寿)

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 日本を含めた民主主義を採用する国にとって、言論の自由は非常に重要な原則だ。だが自由とは極めて脆い。その象徴がフェイクニュースである。

 たとえばアメリカのオバマ元大統領の出生証明書が偽造といううわさがあった。本当はケニア生まれのイスラム教徒ではないか、というものだ。トランプ前大統領も一時期、この陰謀論に傾倒していた。

 結果的に偽情報ということで決着がついた。少なくともトランプでさえ、演説で「オバマ大統領は米国で生まれた。以上だ」と宣言、ケニア説を撤回している。だが騒動は何年にもわたって続いた。

 もしもアメリカが独裁主義の国ならば、こうしたフェイクニュースを打ち消すのは簡単だっただろう。情報統制をして、出生証明書は偽造だという報道や発信を全て禁止すればいいからだ。インターネット時代に完全に情報を管理することは難しいが、罰則でも設けて徹底的にフェイクを排除すれば、少なくとも世論は盛り上がらない。

 もちろん言論の自由を大事にするアメリカでそんなことは不可能だ。粛々と言葉で反論し、出生証明書などエビデンスを示し、世論を納得させていくしかなかった。

 ともすれば無駄と思えるプロセスだ。当事者からすれば結論が明白な事実の証明に、膨大な時間や労力が費やされる。言論の自由が認められた社会では、自分にとって気に食わなくて仕方ない奴の言論の自由も認めなくてはならない。

 オバマの国籍問題は「フェイク」ということになったが、全てのニュースがきれいに「リアル」と「フェイク」に分けられはしない。施政者にとって都合の悪い情報を都合よく「フェイク」認定できる社会は、もはや民主主義とは呼べないだろう。民主主義陣営にとって、情報統制など自殺行為だ。

 だが言論の自由は有事にも守られるだろうか。戦争では情報戦が重要だが、SNSを通じて世論を沸騰させることが可能な時代だ。敵対する国が、社会の分断を狙って、フェイクを交えながら盛んに情報発信をする、という現象は現実に起こりつつある。

 有事は言論以外の自由も脅かす。少し前の世界では、「グローバル化」や「国際主義」を旗印に、自由貿易が推進された。だが自由とは、敵対する陣営を利する行為も容認することを意味する。

 たとえば20世紀に半導体産業の中心だったアメリカは、他国に技術的なリードを許してしまった。グローバルな分業体制で半導体を開発・製造し、使用した方が利が大きいという判断の結果である。

「グローバル」な時代はそれでよかった。だが米中冷戦が現実味を帯びる中、半導体産業で異変が起きている。自由を重んじるはずの西側諸国が、中国企業の締め出しを始めているのだ。中国側が、自由な競争と法の支配を根拠に、西側を批判するというねじれた事態が発生している。自由は風前のともしびかもしれない。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2023年6月22日号掲載

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