新聞で「フェイク」を見分けて「ファクト」をつかめるのか

国内 社会

  • ブックマーク

新聞はネットよりも信頼されている?

「新聞で見分けるフェイク知るファクト」

 これは今年の新聞週間(10月15日~21日)の「代表標語」である。

 毎日新聞は、15日の社説で「フェイクは民主制を壊す」と題し、「フェイクニュースは民主主義社会をむしばむ病原体だ。決して野放しにしてはならない」と主張している。この社説では、総務省情報通信政策研究所の調査を引きながら、メディアの中で最も信頼度が高かったのは新聞(70.1%)で、インターネット(33.8%)とは開きがあり、信頼される「プロフェッショナル」として「正しい情報を伝え続けたい」と決意を表明している。

 その決意は立派であるし、またフェイクニュースは問題だろうが、こうした標語や論調に違和感を持つ人も少なくないだろう。

 そもそも新聞をどれだけ信頼していいのかがよくわからないからだ。

新聞のフェイクを見分ける技術とは

 フリー記者の烏賀陽弘道氏は、新著『フェイクニュースの見分け方』の中で、さまざまなフェイクを見分ける技術を紹介している。同氏が、「新聞のフェイク」を見分けるポイントとして挙げているものをいくつか挙げてみよう。

①主語が明示されていない文章は疑うべし

 烏賀陽氏が新聞記者だった1980年代には、上司(デスク)から「記事では、主語が何かわからない文章を絶対に書くな」と厳命されていた。悪例として「~れる」「~られる」で終わる「受身形」を使ってはいけない、と厳しく命じられており、そういう文章はズタズタに直され、ボロクソに怒られたものだという。

 たとえば、次のような文章。

「党内には不満がたまっており、『何らかの責任を取るのは不可避』との憶測も流れた」

 こういう調子の文章は、多くのメディアで見られるが、「憶測」を述べたのが誰かが極めてあいまいである。

 同様に、たとえば次のような表現。

「○○代表は死に体だとの見方が党内には強まっている」

 この「見方」を示した主語が明示されておらず、それが単数か複数かすら不明である。

②事実の裏付けなしに、書き手の価値判断が混じった言葉を使った文章は疑うべし

 新聞に限らず、大手メディアにはこういう言葉が頻出するというのが同氏の指摘だ。烏賀陽氏が「使ってはいけない」と命じられた言葉の例として「意気込む」「胸を張る」「夢を語る」「反旗を翻す」「反発する」などを挙げている。これらをコメントの後に使うべきではない、と教わったのだ。

 普通ならば「~と話した」「~と語った」「~と述べた」とニュートラルに書けばよいのに、ニュアンスが加えられ、読む人の印象が操作されてしまう点が問題だ。

 烏賀陽氏がある1カ月を抽出して、朝日、読売、毎日、産経新聞の記事で「意気込んだ」という表現がどれくらい使われたか調べたところ、何と1207件も出てきたという。

首相は「気色ばんだ」のか

 最近の例でいえば、総選挙時に日本記者クラブで行なわれた党首討論の模様を伝えたこの記事も、これにあたるだろう。

「『ぜひ国民の皆さんに、新聞をよくファクトチェックしていただきたい』

 8日の党首討論会では、安倍晋三首相が衆院解散の判断に至った要因の一つとされる森友学園・加計学園の問題も取り上げられ、首相が気色ばんで朝日新聞を批判する場面があった」(10月9日付 毎日新聞記事)

 この記事に対しては、実際の様子を中継で見ていた人から「気色ばんではいなかったのでは?」という指摘があり、産経新聞でも同様の指摘がなされている。安倍首相が「気色ばんで」いたかどうかは人によって見方は様々だろうが、この記事の場合、「首相が朝日新聞を批判する場面があった」「首相がそう言った」で済むところに、ある種の“色”をつけているのは間違いない。客観的には、この時の首相は笑顔を見せながら語っていたというのが正確な表現だろう。やや早口ではあるが、それはいつものことである。

 烏賀陽氏によれば、発言や行動が抑制的で地味な時ほど記者には「現実に味付けをしたい」という誘惑が生まれ、「印象を誘導する」「勝手な価値判断が入る」ような言葉を使いたくなるものだという。

「実際に私も新聞社勤務時代、そういう記事を書く立場になったことが何度もある。それが世界遺産、スポーツ選手の国際的活躍、ノーベル賞受賞などなど、延々と繰り返される。

 もう30年以上まったく変わっていない。新聞やテレビが見せるこうした『社会の空気』は『祝賀』『喜び』あるいは『落胆』『困惑』『反発』『怒り』くらいしかバリエーションがない。陳腐な紙面が延々と繰り返されている。

 新聞やテレビに限らず、一般に、根拠となる事実が弱いと、修飾語が過剰に強く、大げさになる傾向がある。

 論拠の強い事実があると、その事実を余計な形容なく描写するだけで、その主張や分析の正しさはたちどころに証明される。それがない、事実が弱いとわかっていると、人間は無意識にそれを補おうとして言葉が強くなる。

 だから『意気込んだ』『決意を語った』『胸を張った』的な強い修飾語が頻出している文章を見ると、私は疑うようにしている」(『フェイクニュースの見分け方』より)

 この原則で見ると、左右の立場と関係なくほとんどの新聞が疑いの対象になってしまう。こうした指摘に、果たして新聞は応えることができるだろうか。

デイリー新潮編集部

2017年10月30日掲載